もとの祝田社、別所氏の崇敬、九柱八幡宮、10月例祭は屋台の石段登り
[住所]兵庫県三木市本町2-19-1
[電話]0794-82-0401
大宮八幡宮(おおみやはちまんぐう)は、兵庫県三木市本町にある神社。近代社格では郷社。播州三木大宮八幡宮とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創祀年代は不詳。現在の八畳敷にあたる山上には磐境があり、飛鳥時代の孝徳天皇(在位:645年-654年)の御代には、山上に社祠が建立されていたという。
その際は、美嚢郡高野里の祝田社(みなぎのこおりたかぬのさとのはふりたのやしろ)と呼ばれていた。『播磨国風土記』美嚢郡条にみえる。
現在も当社境内には本宮として祝田社があり、玉帯志比古大稲男命・玉帯志比売豊稲女命を祀る。
平安時代の天永2年(1111年)、遷座したという。
第62代村上天皇の第七皇子具平親王の皇胤である赤松季房の孫、別所頼清が東播の守護になると、当社を氏神として崇敬した。
代々の城主が守護神とし、祝田社は「祝田宮」と唱えられ、後に「誉田宮」と変り、やがて八幡宮として定着した。現在の主祭神は応神天皇。
安土桃山時代の天正8年(1580年)、羽柴秀吉による三木別所攻め(三木合戦)で別所氏は滅亡し、当社殿や諸記録も焼失した。
しかし、天正11年(1583年)9月13日、秀吉は三木城代の中川右衛門太夫秀政に命じて当社殿を再建、造営させた。
江戸時代初期の慶長8年(1603年)、姫路城主池田輝政は家老伊木長門守を使わし川原の田畑および境内の山林竹木を黒印により寄進。
この際、主祭神の左右に、下記の8柱の神を配祀した。そのため、九柱八幡宮と称された。
国水分神(蔵王大神)、天照皇大神(伊勢大神)、素盞鳴尊(祇園大神)、天児屋根命(春日大神)、熊野久須昆命(熊野大神)、賀茂別雷神(賀茂大神)、中筒之男命(住吉大神)、津御名方命(諏訪大神)。
元和5年(1619年)、小笠原忠政は本殿と諸建築物を修理し、黒印社領を寄附し、当時拡張された境内は7万余坪、東播磨随一の大社として近郷に知られたという。
明治初期に郷社に列し、平成6年(1994年)には割拝殿を境内北側能舞台横に移し、本殿を後方に引き、その前に両翼殿を備える拝殿を建造する大造営を行った。
例祭は10月の体育の日の直前の土曜日。秀吉が命じて再建された日付の新暦換算にちなむ。播州三大祭りの一つ。
女児による浦安の舞が奉納され、神事の後に、神幸の儀に移る。神輿に御霊代を奉遷するが、その際、85段の急な石段を登り宮入した各町の屋台がそれを迎える。
神輿は、猿田彦神の先導のもと、神社役員が御神宝を捧持し、氏子町内を神幸する。高木にある御旅所で一夜を過ごし、翌日再び町内を神幸、各町の屋台に見送られ本殿に鎮まる。
この秋祭りの時には広い境内も参拝者と屋台の担ぎ手でいっぱいになる。屋台の宮出宮入の壮観さは近郷に類なく、その勇壮な姿で知られる。
1月第3日曜日には鬼追式がある。秀吉が隣接する月輪寺に奉納したと伝えられる赤鬼・黒鬼の面を被り、舞い、氏子の無病息災を祈る。
7月の海の日の直前の日曜日には祇園祭があり、御弓引神事・弓道奉納試合や、神道護摩神事が斎行される。
祝田社の他の境内摂社に、大宮天満宮(菅原道真)、尾引稲荷社(倉稲魂命・和産霊神・保食神)、伏見稲荷社、弁財天社(市杵嶋姫命)がある。
境内末社に、豊玉姫社(豊玉姫命)、祓殿(瀬織津比売神・速開都比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神)、播東稲荷社がある。
境外社として、三本松稲荷社(倉稲魂命・稚産霊神・保食神)、金刀比羅社がある。
なお、同名の神社が東京都杉並区大宮にある。
【ご利益】
厄災除け、武運長久・勝運、交通安全、病気平癒(公式HP)

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大宮八幡宮(おおみやはちまんぐう)は、兵庫県三木市本町にある神社。近代社格では郷社。播州三木大宮八幡宮とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創祀年代は不詳。現在の八畳敷にあたる山上には磐境があり、飛鳥時代の孝徳天皇(在位:645年-654年)の御代には、山上に社祠が建立されていたという。
その際は、美嚢郡高野里の祝田社(みなぎのこおりたかぬのさとのはふりたのやしろ)と呼ばれていた。『播磨国風土記』美嚢郡条にみえる。
現在も当社境内には本宮として祝田社があり、玉帯志比古大稲男命・玉帯志比売豊稲女命を祀る。
平安時代の天永2年(1111年)、遷座したという。
第62代村上天皇の第七皇子具平親王の皇胤である赤松季房の孫、別所頼清が東播の守護になると、当社を氏神として崇敬した。
代々の城主が守護神とし、祝田社は「祝田宮」と唱えられ、後に「誉田宮」と変り、やがて八幡宮として定着した。現在の主祭神は応神天皇。
安土桃山時代の天正8年(1580年)、羽柴秀吉による三木別所攻め(三木合戦)で別所氏は滅亡し、当社殿や諸記録も焼失した。
しかし、天正11年(1583年)9月13日、秀吉は三木城代の中川右衛門太夫秀政に命じて当社殿を再建、造営させた。
江戸時代初期の慶長8年(1603年)、姫路城主池田輝政は家老伊木長門守を使わし川原の田畑および境内の山林竹木を黒印により寄進。
この際、主祭神の左右に、下記の8柱の神を配祀した。そのため、九柱八幡宮と称された。
国水分神(蔵王大神)、天照皇大神(伊勢大神)、素盞鳴尊(祇園大神)、天児屋根命(春日大神)、熊野久須昆命(熊野大神)、賀茂別雷神(賀茂大神)、中筒之男命(住吉大神)、津御名方命(諏訪大神)。
元和5年(1619年)、小笠原忠政は本殿と諸建築物を修理し、黒印社領を寄附し、当時拡張された境内は7万余坪、東播磨随一の大社として近郷に知られたという。
明治初期に郷社に列し、平成6年(1994年)には割拝殿を境内北側能舞台横に移し、本殿を後方に引き、その前に両翼殿を備える拝殿を建造する大造営を行った。
例祭は10月の体育の日の直前の土曜日。秀吉が命じて再建された日付の新暦換算にちなむ。播州三大祭りの一つ。
女児による浦安の舞が奉納され、神事の後に、神幸の儀に移る。神輿に御霊代を奉遷するが、その際、85段の急な石段を登り宮入した各町の屋台がそれを迎える。
神輿は、猿田彦神の先導のもと、神社役員が御神宝を捧持し、氏子町内を神幸する。高木にある御旅所で一夜を過ごし、翌日再び町内を神幸、各町の屋台に見送られ本殿に鎮まる。
この秋祭りの時には広い境内も参拝者と屋台の担ぎ手でいっぱいになる。屋台の宮出宮入の壮観さは近郷に類なく、その勇壮な姿で知られる。
1月第3日曜日には鬼追式がある。秀吉が隣接する月輪寺に奉納したと伝えられる赤鬼・黒鬼の面を被り、舞い、氏子の無病息災を祈る。
7月の海の日の直前の日曜日には祇園祭があり、御弓引神事・弓道奉納試合や、神道護摩神事が斎行される。
祝田社の他の境内摂社に、大宮天満宮(菅原道真)、尾引稲荷社(倉稲魂命・和産霊神・保食神)、伏見稲荷社、弁財天社(市杵嶋姫命)がある。
境内末社に、豊玉姫社(豊玉姫命)、祓殿(瀬織津比売神・速開都比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神)、播東稲荷社がある。
境外社として、三本松稲荷社(倉稲魂命・稚産霊神・保食神)、金刀比羅社がある。
なお、同名の神社が東京都杉並区大宮にある。
【ご利益】
厄災除け、武運長久・勝運、交通安全、病気平癒(公式HP)

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