平安期の創建の伝承、鶴岡八幡宮領、鎌倉期の八幡坐像、大イチョウ
[住所]埼玉県川口市峯1304
[電話]048-296-1901

峯ヶ岡八幡神社(みねがおかはちまんじんじゃ)は、埼玉県川口市峯にある神社。峯ケ岡八幡神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

創建には二つの説がある。一つは、江戸時代後期の弘化4年(1847年)8月、別当寺である新光寺第十四世堯源が記した『谷古田八幡宮略縁起』による。

平安時代中期の天慶年間(938年-946年)、平将門が下総国岩井に拠って乱を起こした時、六孫王源経基が勅命により将門と戦った。

その際、霊夢の告により現在地に新たに八幡宮の一社を造建したのが谷古田八幡宮で、つまり当社だという。

もう一つは、江戸時代中期の安永2年(1773年)正月に権僧極楽坊覚胤の記した『如法経縁起并八幡宮縁起』による。

平安時代初期に慈覚大師円仁によって開創されたという。御神体は慈覚大師の手彫りの僧形八幡像で、弘仁8年(817年)に造立し、開創された。

現在伝わる御神体は木造僧形八幡坐像で、紙本墨書造像願文等37点とともに、県の文化財に指定されている。鎌倉時代後期の作とされる。

『如法経縁起并八幡宮縁起』では、神功皇后は、ある時夢ともなく現(うつつ)ともなく日輪が口に入るのを覚えて身ごもったという。

懐胎の身でありながら新羅を征討、筑紫に帰陣し、出産。その際、八幡丸尊(はちまんまるのみこと)と名づけられた、という。

鎌倉幕府の命令書・裁許状『関東下知状』によれば、承久3年(1221年)8月2日、時の執権である北条義時が承久の乱の戦勝を祝し、武蔵国矢古宇郷を鶴岡八幡宮の社領と認めた。

また、『吾妻鏡』承久3年8月7日条には、幕府が鶴岡八幡宮に矢古宇郷50余町を管理する郷司職を認め、郷司としての特権とそれに伴う得分とを与えたという。

矢古宇郷は、現在の川口市東部から草加市西部に広がる一帯で、天慶年間の谷古田領の地域と考えられる。

当社では、上述の創建伝承は伝説で、この承久の頃、鶴岡八幡宮が勧請されて、分社として創建されたのが当社だとしている。

御祭神は、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇

約7700平米の境内には、樹齢600年の県内有数の大イチョウをはじめとした400余本の樹木が繁茂、「峯ヶ岡八幡宮神社の社叢」として、市の天然記念物に指定されている。

例祭は9月15日。2月3日が節分祭で、豆まき、菓子やみかんなどが撒かれる。7月1日が夏越の大祓で、茅の輪くぐりがある。

一の鳥居をくぐり、小高い山の山頂まで参道が続く。徒歩約5分。まず桜並木があり、4月上旬が見頃。

弁天様が祀られている弁天池を過ぎると、両側に神門まで続く65基の石燈籠が連なる。

平成20年(2008年)11月に完成した大鳥居をくぐると大正末期造営の神門。その途中、境内社の御嶽社(日本武尊)、須賀社(須左之男神)がある。

神門の手前向かって左側には、昭和9年(1934年)12月23日に竣工した手水舎がある。

現在の本殿は、室町時代の大永7年(1527年)に造営され、江戸時代前期の元禄10年(1697年)に再営されたもの。

拝殿は、昭和39年(1964年)9月に再営された。

境内社は他に、諏訪社(建御名方神)、稲荷社(宇迦御魂神)、日枝社(大山咋神)・神明社(天照大御神)・白山社(菊理媛神)の合殿がある。

【ご利益】
厄災除け、子宝・安産(公式HP
峯ヶ岡八幡神社 埼玉県川口市峯
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