式内社「白髪神社」とも、もとは春日社、別府氏、東別府城の鎮守
[住所]埼玉県熊谷市東別府708
[電話]048-571-2939

東別府神社(ひがしべっぷじんじゃ)は、埼玉県熊谷市東別府にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 播羅郡「白髪神社」に比定される式内社(小社)の論社。

別府という地名の由来については、二説あり、平安末期ごろ荘園の周辺を別官符(追加開墾状)によって開墾したことによるとも、国府の支庁である別府が置かれたことによるともいう。

いずれにしても、この地は古くから開発された所であり、そのため、当社を式内社とする説があったことが『新編武蔵風土記稿』に記載されている。
幡羅郡白髪神社なる由、式内神社考に見えたれど、當社にては此傳なし、又近村東方村熊野社をも、式内白髪神社なりと云説あれど、二社共に明證はなし。
式内社としては有力視されていないようだ。

もともと当社は春日社と称し、その境内は、別府太郎義家が居城として築いた東別府城の跡にあり、周りを高さ2メートルの土塁と幅3メートルの豪に囲まれている。

別府氏は、藤原鎌足の後裔であることから、氏神として奈良の春日大社を勧請したのが当社の始まり。

安土桃山時代の天正18年(1590年)の東別府城の落城まで、代々城の鎮守として崇敬された。

その後、当山派修験の勧蔵寺、後の宮本院持ちとなり、3石が除地され、江戸時代中期の享保19年(1734年)には宗源宣旨を受けて正一位春日大明神と号した。

神仏分離によって寺の管理を離れた当社は、一時期、春日稲荷神社と称し、いつのころからか稲荷社が合祀されていた。

稲荷社の合祀はかなり早かったと思われ、宝暦年中(1751年-1764年)、当社の再建を機に、稲荷社を旧地に戻そうという動きが氏子の間に起った。

しかしこの時、神意を伺った結果、復社を見送ったと伝わる。

明治42年(1909年)に大字埋鳥の村社榛名神社を合祀し、現社号に改称した。

御祭神は、天児屋根命倉稻魂命(稲荷神?)・大物主奇魂命で、彦由岐命・埴山姫命を合祀する。

彦由岐命は不詳だが、少彦名命のことか。埴山姫命が榛名神社の御祭神だと思われる。例祭は4月15日。境内社に、八坂神社がある。

なお、式内社「白髪神社」の論社は、やはり『新編武蔵風土記稿』に記載された深谷市東方の熊野大神社の他、市内妻沼大我井の大我井神社、妻沼女体の白髪神社がある。

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東別府神社 埼玉県熊谷市東別府
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