物部氏の積組連が祖神を奉斎、中世以降に衰微、明治合祀も昭和復興
[住所]大阪府八尾市水越8
[電話]-
都夫久美神社(つぶくみじんじゃ)は、大阪府八尾市水越にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 高安郡「都夫久美神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。社名は物部氏の一族積組連(つぶくみむらじ)に由来するという。御祭神は物部氏の祖神である宇摩志摩治命。
『新撰姓氏禄』によれば、積組連は、「河内国神別(天神) 積組造 饒速日神子干摩志摩治命之後也」とある。
一説に、「つぶくみ」は「粒噴く水」の意で、水がよく噴出して湧く泉があったため、地名となり、氏の名となったという。
また、「積組」は、構築物建造を意味する「積む・組む」で、積組氏とは、陣地設営など物部氏族の軍事的性格を支える職掌に従事していた、とも。
当社の西方には弥生時代の集落跡である水越遺跡が広がっており、当社との関連が指摘されている。
その後の由緒は不明。物部氏本宗の衰亡後は積組連の勢力も振るわず、当社も衰微したと考えられている。
中世から近世にかけて、近くの玉祖神社が勢力を広げ、当地一帯の氏神になり、当社もその傘下に組み込まれる形になった。
玉祖神社を筆頭とする三所大明神の一つとして、「香森大明神」と称されたとという。字名の中ノ森に香森の佳字を充てたとされる。
明治になり、その由緒が認められ、明治5年(1872年)、水越村の村社に列し、現社号に復した。この際、軻遇突智命と大歳神を合祀したとも。
しかし明治40年(1907年)、神社統合により、玉祖神社に合祀され、社殿は佐麻多度神社の境内末社である天満宮の本殿に移設・転用された。
戦後も長い時間が過ぎ、昭和49年(1974)10月、水越地区の氏子の要望により、玉祖神社から独立、65年ぶりに社殿を新築、復興し、御神体も玉祖神社から戻った。
本殿は、間口三間・奥行二間と小規模。大正15年(1926年)11月に建立された「式内都夫久美神社址」の石碑がある。境内には力石も安置されている。
例祭は10月13日で、秋祭。7月中旬に高安祭りがあり、ふとん太鼓などが出る。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、五穀豊穣
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都夫久美神社(つぶくみじんじゃ)は、大阪府八尾市水越にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 高安郡「都夫久美神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。社名は物部氏の一族積組連(つぶくみむらじ)に由来するという。御祭神は物部氏の祖神である宇摩志摩治命。
『新撰姓氏禄』によれば、積組連は、「河内国神別(天神) 積組造 饒速日神子干摩志摩治命之後也」とある。
一説に、「つぶくみ」は「粒噴く水」の意で、水がよく噴出して湧く泉があったため、地名となり、氏の名となったという。
また、「積組」は、構築物建造を意味する「積む・組む」で、積組氏とは、陣地設営など物部氏族の軍事的性格を支える職掌に従事していた、とも。
当社の西方には弥生時代の集落跡である水越遺跡が広がっており、当社との関連が指摘されている。
その後の由緒は不明。物部氏本宗の衰亡後は積組連の勢力も振るわず、当社も衰微したと考えられている。
中世から近世にかけて、近くの玉祖神社が勢力を広げ、当地一帯の氏神になり、当社もその傘下に組み込まれる形になった。
玉祖神社を筆頭とする三所大明神の一つとして、「香森大明神」と称されたとという。字名の中ノ森に香森の佳字を充てたとされる。
明治になり、その由緒が認められ、明治5年(1872年)、水越村の村社に列し、現社号に復した。この際、軻遇突智命と大歳神を合祀したとも。
しかし明治40年(1907年)、神社統合により、玉祖神社に合祀され、社殿は佐麻多度神社の境内末社である天満宮の本殿に移設・転用された。
戦後も長い時間が過ぎ、昭和49年(1974)10月、水越地区の氏子の要望により、玉祖神社から独立、65年ぶりに社殿を新築、復興し、御神体も玉祖神社から戻った。
本殿は、間口三間・奥行二間と小規模。大正15年(1926年)11月に建立された「式内都夫久美神社址」の石碑がある。境内には力石も安置されている。
例祭は10月13日で、秋祭。7月中旬に高安祭りがあり、ふとん太鼓などが出る。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、五穀豊穣
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