古代難波京の鬼門守護、行基の開基、たびたびの戦火、江戸中期に再興
[住所]大阪府守口市馬場町1-1-11
[電話]06-6996-4808

高瀬神社(たかせじんじゃ)は、大阪府守口市馬場町にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 茨田郡「高瀬神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

旧世木村、馬場村の氏神である。古代の難波京(現 大阪市)の表鬼門の地に位置するところから鬼門の守護神として崇敬されてきた。

社伝によれば、奈良時代、聖武天皇(在位:724年-749年)の勅願により行基が高瀬里に鎮座したものとされる。主祭神は天之御中主神

行基年譜によれば、行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋、橋を管理する高瀬橋院を建立した。

高瀬橋院は、行基四十九院の一つ、高瀬寺で、華厳宗。現在は浄土宗の常称寺に縁起が伝えられている。現在の高瀬寺とは異なるとされる。

当時の淀川南流(現 古川筋)から高瀬川へ通ずる運河大庭溝を開き、高瀬寺は当社の宮寺としても機能したという。

平安時代の延暦4年(785年)、早良親王が淡路国へ配流の途上、高瀬里で憤死した。京都市左京区上高野西明寺山町に早良親王を祀る崇道神社がある。

なお、この頃まで、住吉大社領だったとの指摘もある。高瀬川は古くより歌に詠まれ、「高瀬の里」「高瀬の淀」など有名な枕言葉として使われれた。境内にある石碑には下記の歌が載る。
衣笠内大臣
さしのぼる 高瀬の里の いたずらに 通う人なき 五月雨の頃
その後、平安時代には荘園として河内17ヶ所が成立、高瀬は小高瀬庄となった。この時代、高瀬川から大庭溝は伊勢斎宮退下の通路としても利用された。

高瀬とは浅瀬の意で、紀貫之『土佐日記』にもこの近辺で淀川の水位が下がり、船待ちをした旨の記述がある。

『常称寺縁起』によれば、鎌倉時代の建治元年(1275年)、一遍が荒廃していた高瀬寺の伽藍を再興し、時宗に改宗したという。

後光厳天皇(在位:1352年9月25日-1371年)の勅願により、足利義満が高瀬寺を再興した。

応仁の乱(1467年-1477年)後は畠山氏、三好氏などの同族争いの場となり、当社は、高瀬寺とともにたびたび戦火にさらされた。

石山本願寺成立後、当地は一向宗の勢力下に組み込まれ、やはり戦いの場となる。元亀・天正年間(1570年-1593年)に当社は、高瀬寺とともに再び焼失した。

江戸時代中期、当社が再興された。現在の社殿はこの時のものとされる。現在の社域は非常に狭いが、クスノキの巨木が神域の森の名残を残す。

例祭は10月23日。7月23日に夏祭、2月初午に初午祭がある。

当社と道を隔てた小さな公園には、「高瀬川跡」の碑が建てられている。旧大和川が淀川が合流する場所で、土砂の堆積のため浅瀬となったので、高瀬と呼ばれた、という。

【ご利益】
厄災除け、方除け、家内安全
高瀬神社 大阪府守口市馬場町
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