波多氏の祖神を奉斎、昔は岸和田藩の、今は阿間河谷・八田の一ノ宮
[住所]大阪府岸和田市八田町357
[電話]072-426-7287 - 土生神社

矢代寸神社(やしろぎじんじゃ)は、大阪府岸和田市八田町にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 和泉郡「矢代寸神社二座」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

当地は屋代村と称し、これが社号の「矢代寸」となった。ニ座について、一座は本社で一ノ宮と称し現在地に、もう一座は諏訪宮また矢代寸下神社と称し市内神須屋町にあった。

創建は第26代継体天皇元年(503年)と伝わる。主祭神は武内宿禰波多八代宿禰の父子。波多氏の居住地で、その祖神を祀ったものとされる。

関連して、市内畑朝には波多神社が、阪南市石田には波太神社がある。平安時代の寛治4年(1090年)正月、白河上皇が熊野御幸の折に親拝したという。

江戸時代前期の寛永17年(1640年)、岡部宣勝が摂津国高槻藩より入封し、当社を和泉国岸和田藩の一ノ宮とした。

当地には一宮がなく、領内の南郡岸和田浜町には、和泉国四宮の積川神社の御旅所があったが、積川神社の鎮座地である積川村は幕府領だった。

そこで、領内で古く格式の高い神社として、当社が選定された。藩主交代や参勤交代の際には、藩主自ら岡部家の菩提寺である泉光寺とともに参拝した。

江戸時代中期の元文2年(1737年)、御祭神が不詳となったとされ、京都吉田家に願い出て「一宮牛頭天王(いちのみやごずてんのう)」を称した。

明治になり、藩の一ノ宮ではなくなったものの、地元民により阿間河谷の一ノ宮、あるいは八田一ノ宮として崇敬されている。

明治6年(1873年)、郷社に列した。明治40年(1907年)、泉南郡有真香村神須屋の諏訪神社(建御名方命)を合祀した。

天神社(菅原道真)、真上社(素盞鳴命)、極楽寺社(市杵島比売命)、流木社(武甕槌命)、波多神社も合祀。波多神社は後に復社している。

流木社より、御祭神不詳だか、合戦で戦死した49人の首を埋めたという伝説がある四十九神社(落合神社)も合祀。明治41年(1908年)、神饌幣帛料供進社に指定された。

10月の体育の日に岸和田十月祭礼で東岸和田だんじり祭りの宮入が行われる。地車は八田町・真上町・神須屋町・極楽寺町・流木町計5台。

だんじり祭りとしては珍しい神輿渡御がある。だんじりの宮出しに行われ、神輿担ぐのは最後に宮入をする当番町で、五町持ち回り。

だんじりは神輿に続いて、神須屋町の諏訪神社跡にある御旅所までお供する。

境内社に、稲荷神社(白高大明神・光良大明神)、道祖神社(足神様)、弁財天(流木社から遷宮)がある。

現在は常時神主はおらず、近くの土生神社が兼務している。

【ご利益】
一族・子孫繁栄、地域安全、地域振興、事業成功
矢代寸神社 大阪府岸和田市八田町
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