鎌倉期の創祀、足利尊氏の邸内社となって足利氏の崇敬社「むし八幡」
[住所]京都府京都市中京区亀甲屋町596-1
[電話]075-221-6417
御所八幡宮社(ごしょはちまんぐうしゃ)は、京都府京都市中京区亀甲屋町にある神社。近代社格では村社。御所八幡宮とも。御朱印の有無は不明。
御池通に面しており、「御池の八幡さん」と親しまれている。「等持寺御所八幡」「等持寺八幡」「高倉八幡」「三条坊門八幡」「御池八幡」とも。
御祭神は、応神天皇・神功皇后・比売神。安産と幼児の守り神として、三宅八幡宮とともに「むし八幡」と呼ばれ信仰を集める。
鎌倉時代の弘安元年(1278年)、冷泉小路南・二条大路北・東極大大路西・富小路東の二条内裏が焼失。
後宇多天皇は中院通成の三條坊門万里小路邸(高倉殿)に行幸、この高倉殿が一時内裏となり、石清水八幡宮の若宮が邸内祠として勧請・奉斎され、天皇親拝があった。
南北朝時代になり、足利直義は旧中院通成邸宅に邸を構え、高倉殿と呼ばれた。康永3年(1344年)、足利尊氏は二条第邸内に守護神として御所八幡宮を勧請した。
かつて、源頼義が六条西洞院の邸内に若宮八幡を勧請した故事にならったという。この 頼義邸内社が現在の若宮八幡宮社。
観応3年(1352年)、直義が死去した後、尊氏は私邸南に位置する高倉殿を取り払い、邸内の八幡宮を足利氏鎮守の社として奉斎した。
延文3年(1358年)、尊氏の死去後、尊氏邸は等持寺となり、当社は等持寺の鎮守社ともなった。
室町時代の応永年間(1394年-1428年)、醍醐寺三宝院の僧満済を別当として、当宮は栄えたと伝わる。
しかし、応仁・文明の乱(1467年-1477年)で等持寺が焼失、当社のみが残され、以後、天台宗吉祥院が別当となり、社務を司った。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、社殿を造営。江戸時代中期の宝永5年(1708年)、天明8年(1788年)、幕末の元治元年(1864年)のそれぞれの大火で焼失した。
明治になり、現社号となり、明治38年(1905年)、本殿が再建された。昭和19年(1944年)、御池通の強制建物疎開で現在地に遷座した。
例祭は9月15日で神幸祭。神輿渡御がある。2月3日が節分祭。
【ご利益】
安産、子育て、癇の虫封じ
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御所八幡宮社(ごしょはちまんぐうしゃ)は、京都府京都市中京区亀甲屋町にある神社。近代社格では村社。御所八幡宮とも。御朱印の有無は不明。
御池通に面しており、「御池の八幡さん」と親しまれている。「等持寺御所八幡」「等持寺八幡」「高倉八幡」「三条坊門八幡」「御池八幡」とも。
御祭神は、応神天皇・神功皇后・比売神。安産と幼児の守り神として、三宅八幡宮とともに「むし八幡」と呼ばれ信仰を集める。
鎌倉時代の弘安元年(1278年)、冷泉小路南・二条大路北・東極大大路西・富小路東の二条内裏が焼失。
後宇多天皇は中院通成の三條坊門万里小路邸(高倉殿)に行幸、この高倉殿が一時内裏となり、石清水八幡宮の若宮が邸内祠として勧請・奉斎され、天皇親拝があった。
南北朝時代になり、足利直義は旧中院通成邸宅に邸を構え、高倉殿と呼ばれた。康永3年(1344年)、足利尊氏は二条第邸内に守護神として御所八幡宮を勧請した。
かつて、源頼義が六条西洞院の邸内に若宮八幡を勧請した故事にならったという。この 頼義邸内社が現在の若宮八幡宮社。
観応3年(1352年)、直義が死去した後、尊氏は私邸南に位置する高倉殿を取り払い、邸内の八幡宮を足利氏鎮守の社として奉斎した。
延文3年(1358年)、尊氏の死去後、尊氏邸は等持寺となり、当社は等持寺の鎮守社ともなった。
室町時代の応永年間(1394年-1428年)、醍醐寺三宝院の僧満済を別当として、当宮は栄えたと伝わる。
しかし、応仁・文明の乱(1467年-1477年)で等持寺が焼失、当社のみが残され、以後、天台宗吉祥院が別当となり、社務を司った。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、社殿を造営。江戸時代中期の宝永5年(1708年)、天明8年(1788年)、幕末の元治元年(1864年)のそれぞれの大火で焼失した。
明治になり、現社号となり、明治38年(1905年)、本殿が再建された。昭和19年(1944年)、御池通の強制建物疎開で現在地に遷座した。
例祭は9月15日で神幸祭。神輿渡御がある。2月3日が節分祭。
【ご利益】
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