戦国期に創建、海魔退散で始められた三河一色大提灯まつりは8月
[住所]愛知県西尾市一色町一色宮添129
[電話]0563-73-4276

諏訪神社(すわじんじゃ)は、愛知県西尾市一色町一色宮添にある神社。三河一色諏訪神社、愛知一色諏訪神社とも。参拝すれば、提灯祭にちなむろうそくが描かれた御朱印を頂ける。

第106代正親天皇の御世 戦国時代の永録年間(1558年-1570年)、当時鎮守の神を持たなかった一色の地に、守り神をお招きしたいと村人たちが考えていた。

日本の六十六ヵ所の霊場に法華経を納めて歩いていた行者がやって来て、信濃の諏訪大明神の御分霊を請け、捧持して祠を建てて奉斎したのが始まり。

御祭神は、建御名方命。神紋は、諏訪大社が三本梶とも呼ばれている根幹枝葉の三枚葉の神紋に対して、当社は葉の数が一枚の「梶葉紋」。

そのころ、毎年夏から秋にかけて海魔(かいま)が現れ、田畑を荒し、人畜に危害を加えていた。

そこで村人たちは神前に魔鎮(ましずめ)の剣を供え、大かがり火を焚き、海魔退散を祈願したところ、海魔は退散した。

以後、毎年祭りの神事として、かがり火を焚くのが習わしとなった。これが今に伝わる三河一色大提灯まつりの起源。

かがり火を焚く神事は約100年ほど続いたが、江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)、不便だということで、提灯を作り、献灯するようになった。

さらに、江戸時代中期の元文年間(1736年-1740年)・寛保年間(1741年-1743年)、柱を両側に立て、その間に二張の提灯をつるすようになった。

江戸時代後期の文化年間(1804年-1817年)・文政年間(1818年-1829年)、二本柱から三本柱に変わったという。

このころ「地輪(じりん)」という、地下仕組が考案されたという言い伝えがあり、これが現在の大提灯や大柱に発展していく過程での大きな力となったという。

幕末の安政3年(1856年)、西尾藩から質素倹約のため「胴回りの直径を3.64メートルより大きくしてはならない」と厳命があった。

一部はこれが不満で、翌年には規定を上回る大提灯を掲揚。関係者数人が入牢し、3年間ほど掲揚禁止になったという。

現在は、大提灯の大きさは小さいものでも長さ約5.91メートル、直径約3.64メートル。大きいものになると長さ約10メートル、直径約5.6メートルにもなる。

使用するろうそくも最大で長さ約1.1メートル、重さは約93キロ。

毎年8月21日、20メートル近くある柱が各組3本ずつ立てられる。本社の御柱祭を思わせる壮観さ。

8月23日に屋根形の覆を仕組み、屋根の骨組みを組み立てる。26日、屋根形覆に障子をはめ込み、12張全ての大提灯が掲揚され、神楽が奉納される。

26日午後7時、各組の代表がお祓いを受け御神火を受けて、大提灯の下で大ろうそくに御神火を移し、献灯される。午後11時までろうそくの火が焚かれる。

一般的に「日本三大提灯祭」といえば、秋田竿燈まつり二本松提灯祭り尾張津島天王祭の三つが挙げられる場合が多い。

しかし、新潟彌彦神社白河鹿嶋神社の提灯祭とともに、当社の提灯まつりを日本三大提灯祭とする場合がある。

当社境内には、末社に、三社と五社がある。三社は、天満社(菅原道真公)、下諏訪社(八坂刀売命)、秋葉社(火之迦具土神)。

五社は、神明社(天照皇大神)、津島社(素盞鳴尊)、御鍬社(玉柱屋姫命・伊佐波止美命)、稲荷社(宇迦之御魂神)、琴平社(大物主神)。

神紋にちなみ、平成20年(2008年)早春、境内に「梶の木」が献木された。他に境内には、「さざれ石」が安置されている。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、無病息災、地域安全(公式HP
諏訪神社 愛知県西尾市一色町一色宮添
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諏訪神社 愛知県西尾市一色町一色宮添の御朱印