岐南町の西半分の地名由来、池田輝政が休息、参道は東海道本線で分断
[住所]岐阜県羽島郡岐南町下印食字堂前1685-1
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八剣神社(やつるぎじんじゃ、八剣神社)は、岐阜県羽島郡岐南町下印食堂前にある神社。印食八剣神社とも。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「川島神社/川嶋神社(尾張国・葉栗郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創建時期は不明。一説によれば、日本武尊が東征した際、伊吹山へ向かう途中でこの地で休息。その後、この地に熱田神宮から分祀したという。

室町時代の文献にこの地を「八つるぎ」と記したものがある。岐南町の西半分にあたる地域の旧名、八剣村の由来となったようだ。

慶長5年(1600年)8月22日、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つ、米野の戦いを終えた池田輝政の軍勢がこの地で休息をとり、輝政が境内の松に鎧を掛けて休んだという。

休息後、岐阜城へ向かう途中、織田秀信率いる軍勢と戦い、これを退けた。いわゆる岐阜城の戦いである。

現在、輝政が鎧をかけた松はすでにないが、当時松が生えていた石垣は境内に残っている。

中世から近世にかけては、八劔宮(八剣宮)とも呼ばれた。現在の社殿は江戸時代前期の1651年(慶安4年)の建立だという。

明治7年(1874年)、郷社に列した。昭和5年(1930年)、社殿を大規模に改築した。昭和39年(1964年)に銀幣社となった。

例祭は9月9日だったが、現在は月遅れの10月9日。境内には神馬像、乃木希典像などがある。

現在は岐南町立西小学校に隣接する。参道には、氏子から寄進された春日燈籠が数多く立ち並んでいる。

参道は途中で東海道本線に分断されている。参道には踏切がないので一の鳥居から参拝する場合、約100メートル南の踏切へ迂回する必要がある。

ちなみに、この踏切の名が堂の前踏切。当社地名にもなっている堂前は、この近くにある地蔵堂に由来する。

当社を式内社「川島神社」とする説は有力ではないようだ。

他の論社に、愛知県江南市宮田町の川島神社、岐阜県各務原市川島笠田の白鬚神社、同じく川島松倉の榎神社、神明神社、愛知県一宮市島村の若栗神社の末社川島天神社、岐阜県各務原市成清町の社宮神社がある。

【ご利益】
交通・旅行安全、武運長久・勝運
八剣神社 岐阜県羽島郡岐南町下印食堂前
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