日本武尊が創祀した岡崎最古の社、8月に岡崎三大祭の川花火奉納
[住所]愛知県岡崎市康生町630-1
[電話]0564-23-2506
菅生神社(すごうじんじゃ)は、愛知県岡崎市康生町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝によれば、起源は第12代景行天皇の時代、皇子の日本武尊が東国平定のために菅生の地を通過した際、伊勢大神を勧請したのが始まり。
その際、現在の菅生町、岡崎信用金庫本店南側の満性寺あたりの高石で矢を作り、神風にて一矢を吹き流し、その矢を奉斎したことから「吹矢大明神」と称した。
御祭神は、天照皇大神・豊受姫命。このことにより、当社は市内最古の神社と言われる。別に、市内稲熊町に鎮座する式内社・稲前神社を市内最古とする説がある。
奈良時代の神亀2年(725年)、御神託により京都伏見から「稲荷大明神」を迎え、「吹矢大明神」の同殿に合祀。社地を亀井戸の地、現在の六地蔵町1丁目に移した。
鎌倉時代の正応2年(1289年)、河内国丹南郡菅生から満性寺の了専上人が岡崎の菅生に菅原道真を祀った。現在は当社に合祀されている。
戦国時代の永正14年(1517年)、額田郡宮崎町に勧請された牛頭大王が、洪水で岡崎高石の地に流れ着く。翌年、ここに社殿を造営し、「菅生天王」と称した。現在は須佐之男命として、当社に合祀されている。
大永3年(1523年)、岡崎城主松平信貞が境内に12末社を勧請。永禄9年(1566年)、若き徳川家康が厄除け・開運を祈願して、社殿を再建した。
天正19年(1591年)、城主田中吉政が城郭拡張のため社領などを没収し、12末社も破却。その後、岡崎城内殿橋東側の地に移転した。
江戸時代になり、寛永15年(1638年)、城主本多忠利が本殿を修復。その際に寄進した石鳥居が北入口に現存する。現在、この石鳥居は市の文化財に指定されている。
正保2年(1646年)12月17日、城主水野忠善が徳川家康を祀った。
明治になり、明治元年(1868年)、現社号に改称。明治9年(1876年)には岡崎公園内の龍城神社境内に移転したが、明治23年(1890年)に殿橋東側に再び移転。
明治34年(1901年)、現在地に遷座した。昭和20年(1945年)、戦災で社殿が焼失。その後再建され現在に至る。
祭事に菅生祭がある。7月19日の宵宮祭・20日の例大祭・8月第1土曜日の「鉾船神事・奉納花火」の三つからなる。岡崎三大祭の一つ。
江戸時代後期の文化(1804年-1818年)・ 文政(1818年-1830年)年間から、乙川(菅生川)に提灯を付けた鉾船を浮かべ、金魚花火や手筒花火などを打ち上げ奉納している。
文政元年(1818年)には岡崎藩主上覧花火が催され、城下各町や近在の村々が技を競ったという。「菅生さんの川花火」として知られる。
8月第1土曜日の祭事は現在、「岡崎城下家康公夏まつり」の花火大会との共催で行われている。
岡崎の彫刻家である鶴田鐵山による作で、昭和5年(1930年)12月に奉納された三十六歌仙額面がある。
樹齢数百年の大楠が「パワーの木」として信仰されている。昭和20年(1945年)の岡崎大空襲の時も、昭和50年(1975年)の火災の時も、焼失せず、難を逃れた。
無患子(むくろじ)の種子を「無患子のお守り」として授与している。文字通り「子どもが病気をしない」という縁起物とされる。
【ご利益】
開運招福、五穀豊穣、武運長久・勝運、厄災除け(公式HP)
【関連記事】
・岡崎三大祭とは? - 能見神明宮大祭、菅生神社の菅生祭、岡崎天満宮の例大祭
・愛知県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、愛知県に鎮座している神社の一覧
[電話]0564-23-2506
菅生神社(すごうじんじゃ)は、愛知県岡崎市康生町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝によれば、起源は第12代景行天皇の時代、皇子の日本武尊が東国平定のために菅生の地を通過した際、伊勢大神を勧請したのが始まり。
その際、現在の菅生町、岡崎信用金庫本店南側の満性寺あたりの高石で矢を作り、神風にて一矢を吹き流し、その矢を奉斎したことから「吹矢大明神」と称した。
御祭神は、天照皇大神・豊受姫命。このことにより、当社は市内最古の神社と言われる。別に、市内稲熊町に鎮座する式内社・稲前神社を市内最古とする説がある。
奈良時代の神亀2年(725年)、御神託により京都伏見から「稲荷大明神」を迎え、「吹矢大明神」の同殿に合祀。社地を亀井戸の地、現在の六地蔵町1丁目に移した。
鎌倉時代の正応2年(1289年)、河内国丹南郡菅生から満性寺の了専上人が岡崎の菅生に菅原道真を祀った。現在は当社に合祀されている。
戦国時代の永正14年(1517年)、額田郡宮崎町に勧請された牛頭大王が、洪水で岡崎高石の地に流れ着く。翌年、ここに社殿を造営し、「菅生天王」と称した。現在は須佐之男命として、当社に合祀されている。
大永3年(1523年)、岡崎城主松平信貞が境内に12末社を勧請。永禄9年(1566年)、若き徳川家康が厄除け・開運を祈願して、社殿を再建した。
天正19年(1591年)、城主田中吉政が城郭拡張のため社領などを没収し、12末社も破却。その後、岡崎城内殿橋東側の地に移転した。
江戸時代になり、寛永15年(1638年)、城主本多忠利が本殿を修復。その際に寄進した石鳥居が北入口に現存する。現在、この石鳥居は市の文化財に指定されている。
正保2年(1646年)12月17日、城主水野忠善が徳川家康を祀った。
明治になり、明治元年(1868年)、現社号に改称。明治9年(1876年)には岡崎公園内の龍城神社境内に移転したが、明治23年(1890年)に殿橋東側に再び移転。
明治34年(1901年)、現在地に遷座した。昭和20年(1945年)、戦災で社殿が焼失。その後再建され現在に至る。
祭事に菅生祭がある。7月19日の宵宮祭・20日の例大祭・8月第1土曜日の「鉾船神事・奉納花火」の三つからなる。岡崎三大祭の一つ。
江戸時代後期の文化(1804年-1818年)・ 文政(1818年-1830年)年間から、乙川(菅生川)に提灯を付けた鉾船を浮かべ、金魚花火や手筒花火などを打ち上げ奉納している。
文政元年(1818年)には岡崎藩主上覧花火が催され、城下各町や近在の村々が技を競ったという。「菅生さんの川花火」として知られる。
8月第1土曜日の祭事は現在、「岡崎城下家康公夏まつり」の花火大会との共催で行われている。
岡崎の彫刻家である鶴田鐵山による作で、昭和5年(1930年)12月に奉納された三十六歌仙額面がある。
樹齢数百年の大楠が「パワーの木」として信仰されている。昭和20年(1945年)の岡崎大空襲の時も、昭和50年(1975年)の火災の時も、焼失せず、難を逃れた。
無患子(むくろじ)の種子を「無患子のお守り」として授与している。文字通り「子どもが病気をしない」という縁起物とされる。
【ご利益】
開運招福、五穀豊穣、武運長久・勝運、厄災除け(公式HP)
【関連記事】
・岡崎三大祭とは? - 能見神明宮大祭、菅生神社の菅生祭、岡崎天満宮の例大祭
・愛知県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、愛知県に鎮座している神社の一覧
コメント