桶狭間の戦いで今川方武将が祈願、今川義元が使用し、奉献された酒桶
[住所]愛知県名古屋市緑区桶狭間神明1520
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桶狭間神明社(おけはざましんめいしゃ)は、愛知県名古屋市緑区桶狭間神明にある神社。近代社格では村社。正式名称は神明社(しんめいしゃ)。御祭神は天照大神である。御朱印の有無は不明。

一説に、創建は江戸時代中期の寛政3年(1791年)とされるが、各種資料を勘案すると、江戸時代初頭にはすでに存在していたとみる向きが有力か。

また、後述のように、桶狭間の戦いの前に、今川方の武将が戦勝を祈願していることから、創祀・創建はもっとさかのぼる可能性がある。

戦国時代の永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて、今川方の先手侍大将として当地に着陣した瀬名氏俊が戦勝を祈願したという。

この時に奉献した神酒の酒桶とされるものが当社の宝物として残されている。この宝物は今川義元が水を汲んだ桶であるともいわれる。

宝暦3年(1753年)には社殿の大造営が行われ、現在も残る神楽殿および裏山の瑞垣はこの時に作られたもの。社殿は昭和10年(1935年)にも改築された。

社殿の左右に立つ樹幹は「お手植えの杉」と呼ばれる。宝永年間(1704年-1710年)、知多地方巡行の際に当社を参詣した尾張藩4代藩主徳川吉通が拝殿前に杉の苗木を植樹した。

巨木に成長した杉は1世紀以上にわたって繁栄し続けたが、江戸時代後期の文政7年(1824年)、台風により、倒伏・枯死してしまった。

これを惜しんだ氏子らが、枯死した樹幹を同じ場所に直立させ、御神木として保存するようになったという。

明治時代に至り、神社合祀の動きを受けて村内各所に散在していた小祠が集められ、13の境内社として今に伝わる。

例祭は寛文年間(1661年-1673年)から始まったとされ、8月16日の当日は当初桶廻間村と支郷であった有松村の両村から氏子が集った。

寛政年間(1789年-1801年)に鳴海村の天神山に天満社が勧請されて有松村の氏神とされ(有松天満社)、その例祭日が桶狭間神明社の前日である8月15日と定められた。

そのため、15日の天満社祭礼には桶廻間から馬や獅子が出、16日の当社祭礼には有松から行列が赴くなどして、2村が両祭礼に相互参加する慣習が昭和期まで続いた。

1970年代に至り、例祭は毎年10月第2日曜日に行われるようになった。

地区によって上・中・下3組に分かれた一行が、大きな角樽に差した笠鉾、大太鼓を積んだ音頭台を載せた台車を引いて参詣する。

この行列にも近年、名古屋市南部の祭礼の特徴とされる猩々(しょうじょう)が加わっている。

境内には盃状穴(はいじょうけつ)を持つ石が残されている。もとは参道入口にあった常夜灯の台座として使用されていた石とみられる。

先の境内13社の中で、熱田社は熱田神宮を、天満社は北野天満宮を、鹽竈社は鹽竈神社を、それぞれ江戸時代中期に勧請したもの。

浅間社は、江戸時代末期、桶廻間村の信者により勧請された。金刀比羅社は、もとは和光山長福寺にあったもの。

御鍬社は、古くは田楽坪にあったものが、江戸時代に郷前に遷座したもの。金峯社は、もとはセト山付近にあった。石神社は、もとは東ノ池南西角にあり、秋葉社は、もとは郷前にあった。

愛宕社と山之神社は、当社とともに『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』に、桶廻間村に前々除として存在した三つの社。

「前々除」とは、慶長13年(1608年)の伊奈忠次による検地(備前検)の際に崇敬の証として社寺の所領地が無税とされたことを示す言葉。

津島社は、もとは林下の鞍流瀬川堤防に鎮座する天王祠だった。洲原社は明治期に洲原神社を勧請したもの。

【ご利益】
開運招福、武運長久・勝運
桶狭間神明社 愛知県名古屋市緑区桶狭間神明
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