紀氏・大村市の祖の枳根命、多田源氏、戦国期や江戸期の歴史舞台
[住所]大阪府豊能郡能勢町森上103-3
[電話]072-734-0320
岐尼神社(きねじんじゃ)は、大阪府豊能郡能勢町森上にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 能勢郡「岐尼神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社記によると、平安時代の延暦元年(782年)の創祀。御祭神は、後世の合祀も含め、枳根命・瓊瓊杵尊・天児屋根命・多田満仲(源満仲)。
能勢郡の式内は三社で、当社の他は、野間神社、久佐々神社があるのみで、当社は能勢三社の一つ。
社頭掲示板では、瓊瓊杵尊の降臨に関して、当社でも類似の伝承を伝えている、とし、杵の字から「きね」となったとしている。
しかし、当社の伝承は「岐尼神が南の小丘に降臨」なのだから、これが瓊瓊杵尊のことは不明。南北朝時代の延元4年(1339年)銘のある瓊瓊杵尊の座像が伝わり、当社でも主神としている。
枳根命(きねのみこと)は、天道根命の六世孫である君積命と同一視される。紀氏の祖であり、和泉国大鳥郡大村郷にちなむとされる大村氏の祖。
枳弥都弥命とも表記され、大名草彦命(おおなくさひこのみこと)の子。当社は「枳尼」「枳根」「枳禰」とも表記され、「杵宮」とも呼ばれた。
『摂津国風土記』にある、「美奴売山の神は神功皇后が新羅に遠征のための船材の杉を提供し、自らも守護神として乗り込んだ」の中の美奴売山の神と、枳根命は関係しているとも。
『摂陽群談』に、「社家説云、枳根大明神二座所祭春日神也」とあり、これが天兒屋根命であろうが、勧請時期は不明。
源満仲は、多田の地の開発領主で、子孫は清和源氏として大いに栄えた。多田には満仲の家臣・一族らが入って開発治世に努め、いずれかの時期にその祖として合祀されたようだ。
当地は丹波と摂津の境目にあたり、戦国時代には清和源氏の流れをくむ小武士団の西郷衆が割拠していた。
また、当社後方の山上に築かれた森上城には能勢氏の一族が入り、南方の摂津山下城主に拠る塩川氏、丹波の波多野氏らと対峙した。
天文14年(1545年)、波多野氏の攻撃で月峯寺が焼き討ちされ、続いて天文18年(1549年)には塩川伯耆守の侵攻にさらされた。
塩川氏との戦いは「岐尼の宮合戦」と呼ばれ、森上城主能勢小重郎を大将とする西郷衆の勝利に終わった。討たれた塩川衆を葬った地が「多田塚」として今に伝わっている。
その後、天正7年(1579年)、織田信澄の乱入によって、社殿は兵火にかかって焼亡、伝来していた古文書も失われた。
関ヶ原の合戦を経て戦乱も落ち着いた江戸時代初期の慶長10年(1605年)、社殿が再建され、さらに江戸時代中期の享保12年(1727年)に修復された。
江戸時代は「枳根大明神」と称していた。江戸時代に大塩平八郎の乱などに誘発されて起こった「能勢騒動」など、能勢における歴史的大事件も当社が舞台となった。
当社には塔頭十坊が連なったとされるが、幕末までに成就坊のみを残して廃絶していた。その成就坊も明治初年廃され、現在境内に成就坊遺跡の碑のみ残されている。
明治5年(1872年)、郷社に列し、明治40年(1907年)2月11日、神饌幣帛料供進社に指定され、10ヶ村の氏神を合祀したという。
天照大神・伊邪那岐神・伊邪那美神・豊受比売神・速素盞嗚尊・中筒男神・綿津見神・大山祇神・宇賀御魂神・火産霊神・保食神・大歳神・大国主命・猿田彦神・金山彦神・応神天皇・小童命・八衢比売神・櫛御気野命・菅原道真・源満政を配祀する。
例祭は4月15日。毎年8月12 日に「盆の市」が行われる。西能勢の夏の風物詩の一つ。出店があり、多くの人で賑わう。
【ご利益】
地域安全、地域振興、事業成功
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岐尼神社(きねじんじゃ)は、大阪府豊能郡能勢町森上にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 能勢郡「岐尼神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社記によると、平安時代の延暦元年(782年)の創祀。御祭神は、後世の合祀も含め、枳根命・瓊瓊杵尊・天児屋根命・多田満仲(源満仲)。
能勢郡の式内は三社で、当社の他は、野間神社、久佐々神社があるのみで、当社は能勢三社の一つ。
社頭掲示板では、瓊瓊杵尊の降臨に関して、当社でも類似の伝承を伝えている、とし、杵の字から「きね」となったとしている。
しかし、当社の伝承は「岐尼神が南の小丘に降臨」なのだから、これが瓊瓊杵尊のことは不明。南北朝時代の延元4年(1339年)銘のある瓊瓊杵尊の座像が伝わり、当社でも主神としている。
枳根命(きねのみこと)は、天道根命の六世孫である君積命と同一視される。紀氏の祖であり、和泉国大鳥郡大村郷にちなむとされる大村氏の祖。
枳弥都弥命とも表記され、大名草彦命(おおなくさひこのみこと)の子。当社は「枳尼」「枳根」「枳禰」とも表記され、「杵宮」とも呼ばれた。
『摂津国風土記』にある、「美奴売山の神は神功皇后が新羅に遠征のための船材の杉を提供し、自らも守護神として乗り込んだ」の中の美奴売山の神と、枳根命は関係しているとも。
『摂陽群談』に、「社家説云、枳根大明神二座所祭春日神也」とあり、これが天兒屋根命であろうが、勧請時期は不明。
源満仲は、多田の地の開発領主で、子孫は清和源氏として大いに栄えた。多田には満仲の家臣・一族らが入って開発治世に努め、いずれかの時期にその祖として合祀されたようだ。
当地は丹波と摂津の境目にあたり、戦国時代には清和源氏の流れをくむ小武士団の西郷衆が割拠していた。
また、当社後方の山上に築かれた森上城には能勢氏の一族が入り、南方の摂津山下城主に拠る塩川氏、丹波の波多野氏らと対峙した。
天文14年(1545年)、波多野氏の攻撃で月峯寺が焼き討ちされ、続いて天文18年(1549年)には塩川伯耆守の侵攻にさらされた。
塩川氏との戦いは「岐尼の宮合戦」と呼ばれ、森上城主能勢小重郎を大将とする西郷衆の勝利に終わった。討たれた塩川衆を葬った地が「多田塚」として今に伝わっている。
その後、天正7年(1579年)、織田信澄の乱入によって、社殿は兵火にかかって焼亡、伝来していた古文書も失われた。
関ヶ原の合戦を経て戦乱も落ち着いた江戸時代初期の慶長10年(1605年)、社殿が再建され、さらに江戸時代中期の享保12年(1727年)に修復された。
江戸時代は「枳根大明神」と称していた。江戸時代に大塩平八郎の乱などに誘発されて起こった「能勢騒動」など、能勢における歴史的大事件も当社が舞台となった。
当社には塔頭十坊が連なったとされるが、幕末までに成就坊のみを残して廃絶していた。その成就坊も明治初年廃され、現在境内に成就坊遺跡の碑のみ残されている。
明治5年(1872年)、郷社に列し、明治40年(1907年)2月11日、神饌幣帛料供進社に指定され、10ヶ村の氏神を合祀したという。
天照大神・伊邪那岐神・伊邪那美神・豊受比売神・速素盞嗚尊・中筒男神・綿津見神・大山祇神・宇賀御魂神・火産霊神・保食神・大歳神・大国主命・猿田彦神・金山彦神・応神天皇・小童命・八衢比売神・櫛御気野命・菅原道真・源満政を配祀する。
例祭は4月15日。毎年8月12 日に「盆の市」が行われる。西能勢の夏の風物詩の一つ。出店があり、多くの人で賑わう。
【ご利益】
地域安全、地域振興、事業成功
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