鏡作による奉斎か、本殿は江戸後期の珍しい構造、10月にだんじり祭り
[住所]大阪府東大阪市若江南2-3-9
[電話]06-6721-2340
若江鏡神社(わかえかがみじんじゃ)は、大阪府東大阪市若江南にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 若江郡「若江鏡神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。社名に「鏡」が入っていることから、鏡作の氏族が氏神を祀ったものと考えられている。
神功皇后4年、大旱魃があり、農作物の枯死寸前に際し、神前で大般若経を唱読し祈願すると、当社裏の淵より清水が湧き出て危機を救ったと伝わる。
これにより、般若経の「若」と水の源の「江」をとり、若江郡と称せられたという。ただし、神功皇后の時代と、大般若経ではミスマッチの伝承。
しかし、若江造は『新撰姓氏録』右京諸蕃に「後漢霊帝後裔奈率張安力」の後とあり、大般若経ではなくても、大陸から早い段階で仏教や他の要素が流入した可能性のある地域ではある。
また、当社本殿前には「雷の手形石」という奇石があり、水神としての功徳があったことは確実。
御祭神は、大伊迦槌火明神・足仲彦命で、気長足姫命(神功皇后)を配祀する。大伊迦槌火明神には諸説あるが、「鏡」の物部系で、火明命と理解されることが多い。
『日本文徳天皇実録』に斉衡元年(854年)、「河内国大雷火明之神、従五位下」とあるのが当社のことと推定されている。
平安時代に石清水八幡宮領の若江荘がこの地域にあったことから、八幡神を祀るようになったと考えられている。
鎮座地の北側に若江城があった関係で、神饌田の寄進など、畠山政長より三好左京大夫源義継までの歴代城主の崇敬を受けた。
江戸時代初期の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で、兵火にかかって社殿や神宝が焼失した。
寛永年間(1624年-1645年)には公儀の費用によって社殿が修復されたという。元禄年間(1688年-1704年)には現社号で呼ばれていたようだが、塚本神社とも呼ばれた。
江戸時代後期の文政11年(1828年)に本殿が再建された。三間社流造檜皮葺亀腹上で、一間社流造二棟を中央に相殿を入れて連結した珍しい遺構だという。市指定文化財。
明治5年(1872年)、郷社に列し、明治41年(1908年)1月、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月10日。秋祭りで、地車(だんじり)が曳行する。
境内社に、天照皇太神社(天照皇太神)、塚本稲荷神社(豊受大神。勝手明神・楠木正成を合祀)、熊野権現社、水分社、鏡竜社、御縁地蔵尊社がある。
由緒書に示されている方位図によれば、当社の本殿は、真正面に春分・秋分に生駒山系の山から登る太陽を望み、南に30度振った方位に、冬至の日の出を望む地に立地する。
そこから、当社は季節の節目である春分・秋分の朝、昇る太陽を正面に拝する日読みの聖地であるとされる。
また、当社・石切剣箭神社・玉祖神社という三式内社を直線でつなぐと、正三角形を形作ることでも知られている。
【ご利益】
水の神、五穀豊穣、方除け、一族・子孫繁栄
【関連記事】
・河内国式内三社のトライアングルとは? - 物部系の玉祖神社・石切剣箭神社・若江鏡神社
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[電話]06-6721-2340
若江鏡神社(わかえかがみじんじゃ)は、大阪府東大阪市若江南にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 若江郡「若江鏡神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。社名に「鏡」が入っていることから、鏡作の氏族が氏神を祀ったものと考えられている。
神功皇后4年、大旱魃があり、農作物の枯死寸前に際し、神前で大般若経を唱読し祈願すると、当社裏の淵より清水が湧き出て危機を救ったと伝わる。
これにより、般若経の「若」と水の源の「江」をとり、若江郡と称せられたという。ただし、神功皇后の時代と、大般若経ではミスマッチの伝承。
しかし、若江造は『新撰姓氏録』右京諸蕃に「後漢霊帝後裔奈率張安力」の後とあり、大般若経ではなくても、大陸から早い段階で仏教や他の要素が流入した可能性のある地域ではある。
また、当社本殿前には「雷の手形石」という奇石があり、水神としての功徳があったことは確実。
御祭神は、大伊迦槌火明神・足仲彦命で、気長足姫命(神功皇后)を配祀する。大伊迦槌火明神には諸説あるが、「鏡」の物部系で、火明命と理解されることが多い。
『日本文徳天皇実録』に斉衡元年(854年)、「河内国大雷火明之神、従五位下」とあるのが当社のことと推定されている。
平安時代に石清水八幡宮領の若江荘がこの地域にあったことから、八幡神を祀るようになったと考えられている。
鎮座地の北側に若江城があった関係で、神饌田の寄進など、畠山政長より三好左京大夫源義継までの歴代城主の崇敬を受けた。
江戸時代初期の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で、兵火にかかって社殿や神宝が焼失した。
寛永年間(1624年-1645年)には公儀の費用によって社殿が修復されたという。元禄年間(1688年-1704年)には現社号で呼ばれていたようだが、塚本神社とも呼ばれた。
江戸時代後期の文政11年(1828年)に本殿が再建された。三間社流造檜皮葺亀腹上で、一間社流造二棟を中央に相殿を入れて連結した珍しい遺構だという。市指定文化財。
明治5年(1872年)、郷社に列し、明治41年(1908年)1月、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月10日。秋祭りで、地車(だんじり)が曳行する。
境内社に、天照皇太神社(天照皇太神)、塚本稲荷神社(豊受大神。勝手明神・楠木正成を合祀)、熊野権現社、水分社、鏡竜社、御縁地蔵尊社がある。
由緒書に示されている方位図によれば、当社の本殿は、真正面に春分・秋分に生駒山系の山から登る太陽を望み、南に30度振った方位に、冬至の日の出を望む地に立地する。
そこから、当社は季節の節目である春分・秋分の朝、昇る太陽を正面に拝する日読みの聖地であるとされる。
また、当社・石切剣箭神社・玉祖神社という三式内社を直線でつなぐと、正三角形を形作ることでも知られている。
【ご利益】
水の神、五穀豊穣、方除け、一族・子孫繁栄
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