飛鳥朝に石上神宮を勧請、能勢氏の崇敬、大ケヤキは国の天然記念物
[住所]大阪府豊能郡能勢町地黄399
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野間神社(のまじんじゃ)は、大阪府豊能郡能勢町地黄にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 能勢郡「野間神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

能勢郡の式内は三社、当社の他は、岐尼神社久佐々神社があるのみで、当社は能勢三社の一つ。

社伝などによれば、飛鳥時代の第33代推古天皇13年(605年)9月、大和国布留宮(現 石上神宮)より「勾玉」の御神体を奉祭したのが創祀。

古くは社号を「布留宮」「布留社」「布留大明神」と呼んでいた。

御祭神は、後世の合祀も含まれるが、饒速日命宇賀御魂神菅原道真草野姫命・野見宿禰。

勧請元との兼ね合いからも、物部氏、さらにその氏族である野間氏との関連がうかがえる。

野見宿禰について、『日本書紀』第21代雄略天皇の段において、「能勢より士器を献上した」こととの関連がうかがえるという。野見宿禰は土師氏の祖、その裔が菅原道真。

社記によれば、鎮座地を「地黄」と呼ぶのは、石上神宮の御分霊とともに、この地に同道した人々が持ってきた薬草「地黄草」にちなむという。

平安時代の承和年間(834年-848年)より、当地は朝廷典薬寮領の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。

さらに長暦元年(1037年)、能勢採銅所の設置により、当社はこの採銅所の鎮守社となり、採銅処権預の佐伯氏が神主となって祭事を務めた。

能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573年-1592年)、織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争が繰り返され、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われた。

天正16年(1588年)には、能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となった。

天正19年(1591年)9月、領主島津義弘は、前領主能勢頼次らの願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。

『東郷村誌』にあるこの時の棟札によれば、各村々の人口は1479人とある。

その後、能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領を回復、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝わる。

以後、能勢氏の尊崇は厚く、江戸時代前期の万治年間(1658年-1661年)に拝殿・大鳥居を造立、江戸時代中期の元文元年(1736年)には社殿の改築がなされた。

この時、並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の右側に建立された。明治40年(1907年)、領内最奇りの神社9社が当社に台祀された。

祭事として、古来より毎年12月に行われる「御召し替え」がある。御霊代である玉の包み替えが行われる。

10月秋の大祭では、近郷には稀な「たんじり」「しし舞い」で賑わう、豪勢な祭りとして知られる。

「野間の大けやき」がある。俗称は蟻無のケヤキ。当社が合祀した野間稲地の旧蟻無神社境内にあって御神木。国の天然記念物に指定されている。

幹回り10.75メートル、高さ約33メートル、枝張り東西42メートル、南北38メートル、樹齢は1000年以上と推定され、樹勢はいまでも旺盛である。

境内社に、七郎神社・祓戸神社・各区祭神総社・稲荷総社などがる。機雷の形をした忠魂碑がある。

陰陽石が安置されている。当社から発掘された御神石で庭園を造成したもの。

【ご利益】
身体壮健、医薬、諸願成就
野間神社 大阪府豊能郡能勢町地黄
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