洪水で流され無傷で移動した地に遷座、勝ち馬の神、北向虫八幡宮
[住所]京都府京都市伏見区横大路天王後51
[電話]075-611-5613
田中神社(たなかじんじゃ)は、京都府京都市伏見区横大路天王後にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 紀伊郡「飛鳥田神社」に比定される式内社(小社)の論社。
桂川、鴨川の合流点の南東、旧京阪国道(府道13号線)に面して鎮座する。下鳥羽村、横大路村の産土神。
平安時代の治暦年間(1065年-1069年)、祇園感神院を勧請して創建されたという。当初は現在地の北、鳥羽里田中にあり、牛頭天王田中神社と呼ばれた。
御祭神は、建速素盞嗚尊、櫛稲田姫尊、二人の子とされる太歳神・大将軍・太陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神の八柱御子神。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」にも加盟している。
創建が『延喜式』よりも後であり、なぜ式内論社なのか不明。他の論社に、伏見稲荷大社に合祀されたもの、東山区本町の田中神社、横大路柿ノ本町と下鳥羽城ノ越町に式内同名神社がある。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、洪水のために現在地に遷座。というより、洪水により、そのまま無傷で現在地に移動したと伝わる。
この奇跡に村民は喜び、境内を整備し、社殿を再興して盛大な祭祀を行ったという。
桂川の氾濫に関しては、それより1000年ほど前、飛鳥時代の第29代欽明天皇の時代に、対岸の羽束師坐高御産日神社が、水に浸かることがなかったという神威によって、帝より神封を賜ったとも伝わる。
江戸時代後期の文化13年(1816年)、現在の本殿が建立された。明治5年(1872年)、北向虫八幡宮が当社境内に遷された。
この北向虫八幡宮には、村上天皇第2皇子である憲平親王が癇の虫がひどかったことから、母の藤原安子が祈願したところ平癒したとの伝承が残る。
憲平親王は、後の冷泉天皇(在位:967年-969年)であり、この頃から北向虫八幡宮は鎮座していたということで、当社よりも古いことになる。
この報恩のために、安子の父である藤原師輔が御所を守護するようにと社殿を北向きに立てたため、北向虫八幡宮と呼ばれるようになった。
冷泉天皇は皇太子時代に心の病を発している。立太子を逸し早逝した広平親王の「物の怪」によるともいわれた。北向虫八幡宮には怨霊封じ・怨霊退散のご利益もあるか。
ただし、社標には「北向兒八幡宮」とある。虫封じの「虫」ではなく、子供を表す「児」であって、子供の成長全般を見守る神なのかもしれない。
当社の例祭は10月第2日曜日からの7日間で、秋季例祭・秋祭・神幸祭。4月10日が春季例祭で、春祭。
当社の賽銭箱の両脇には馬の木像が安置されている。かつて境内にあったクスノキの大木を切った際に、それを用いて掘ったもの。
白馬と黒馬があり、白馬は牡馬、黒馬は雌馬だという。これは昔から、当社は馬のご利益が謳われることによる。ただし、当社と馬の関係は不詳。
現在では、勝ち馬の神、馬の神として有名で、当社の南方、数キロに京都競馬場があり、当社は競馬ファンが参拝に訪れる必勝祈願スポットにもなっている。
北向虫八幡宮の他、境内社に、雲水社(市杵嶋姫命)、道祖社(猿田彦命)、天満宮社(菅原道真公)、草薙社(草薙剣・八俣遠呂智霊)などがある。
【ご利益】
武運長久・勝運、子宝・夫婦和合、子育て、子供全般の守護神
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田中神社(たなかじんじゃ)は、京都府京都市伏見区横大路天王後にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 紀伊郡「飛鳥田神社」に比定される式内社(小社)の論社。
桂川、鴨川の合流点の南東、旧京阪国道(府道13号線)に面して鎮座する。下鳥羽村、横大路村の産土神。
平安時代の治暦年間(1065年-1069年)、祇園感神院を勧請して創建されたという。当初は現在地の北、鳥羽里田中にあり、牛頭天王田中神社と呼ばれた。
御祭神は、建速素盞嗚尊、櫛稲田姫尊、二人の子とされる太歳神・大将軍・太陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神の八柱御子神。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」にも加盟している。
創建が『延喜式』よりも後であり、なぜ式内論社なのか不明。他の論社に、伏見稲荷大社に合祀されたもの、東山区本町の田中神社、横大路柿ノ本町と下鳥羽城ノ越町に式内同名神社がある。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、洪水のために現在地に遷座。というより、洪水により、そのまま無傷で現在地に移動したと伝わる。
この奇跡に村民は喜び、境内を整備し、社殿を再興して盛大な祭祀を行ったという。
桂川の氾濫に関しては、それより1000年ほど前、飛鳥時代の第29代欽明天皇の時代に、対岸の羽束師坐高御産日神社が、水に浸かることがなかったという神威によって、帝より神封を賜ったとも伝わる。
江戸時代後期の文化13年(1816年)、現在の本殿が建立された。明治5年(1872年)、北向虫八幡宮が当社境内に遷された。
この北向虫八幡宮には、村上天皇第2皇子である憲平親王が癇の虫がひどかったことから、母の藤原安子が祈願したところ平癒したとの伝承が残る。
憲平親王は、後の冷泉天皇(在位:967年-969年)であり、この頃から北向虫八幡宮は鎮座していたということで、当社よりも古いことになる。
この報恩のために、安子の父である藤原師輔が御所を守護するようにと社殿を北向きに立てたため、北向虫八幡宮と呼ばれるようになった。
冷泉天皇は皇太子時代に心の病を発している。立太子を逸し早逝した広平親王の「物の怪」によるともいわれた。北向虫八幡宮には怨霊封じ・怨霊退散のご利益もあるか。
ただし、社標には「北向兒八幡宮」とある。虫封じの「虫」ではなく、子供を表す「児」であって、子供の成長全般を見守る神なのかもしれない。
当社の例祭は10月第2日曜日からの7日間で、秋季例祭・秋祭・神幸祭。4月10日が春季例祭で、春祭。
当社の賽銭箱の両脇には馬の木像が安置されている。かつて境内にあったクスノキの大木を切った際に、それを用いて掘ったもの。
白馬と黒馬があり、白馬は牡馬、黒馬は雌馬だという。これは昔から、当社は馬のご利益が謳われることによる。ただし、当社と馬の関係は不詳。
現在では、勝ち馬の神、馬の神として有名で、当社の南方、数キロに京都競馬場があり、当社は競馬ファンが参拝に訪れる必勝祈願スポットにもなっている。
北向虫八幡宮の他、境内社に、雲水社(市杵嶋姫命)、道祖社(猿田彦命)、天満宮社(菅原道真公)、草薙社(草薙剣・八俣遠呂智霊)などがある。
【ご利益】
武運長久・勝運、子宝・夫婦和合、子育て、子供全般の守護神
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