久我家・村上源氏に関連する春日神、5月に500年以上の歴史ある氏子祭
[住所]京都府京都市伏見区久我石原町3-27
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菱妻神社(ひしづま じんじゃ)は、京都府京都市伏見区久我石原町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

東から鴨川、西高瀬川、桂川が流れる、その桂川のさらに西に鎮座する。現在は、参道の中を名神高速道路が東西に横切る。

平安時代の永久元年(1113年)、久我家の祖である右大臣源雅実が、奈良春日大明神の藤原氏祖神である天児屋根命を、源氏の守護神として勧請したものだという。

社名は当初、火止津目大明神(ひしずめ。火鎮の神)と称した。長承3年(1134年)、桂川の大洪水により社地が流された。

このことにより、久寿元年(1154年)、「火止津目」から同音で、水禍除けの意味があるという「菱妻」に社号を改めた。

往時は、桂川の西に方39間(70.9メートル四方)の社地に、本殿・拝殿・神楽殿などが建ち並んでいたという。

遷宮の際には、源具仁親王、源氏(久我氏)、藤原氏の一族が、牛車3両、手輿数十丁を連ねて社参したという。

鎌倉時代になると、周辺の久我上庄の鎮守となり、上久我大明神ともいわれた。現在の社殿は、江戸時代後期の天保5年(1835年)の建立。

例祭は9月20日。5月上旬から中旬にかけて、氏子祭がある。15世紀にはほぼ現在の形で行われていたと考えられ、500年以上もほぼ同じ形の祭が伝承されている。

5月上旬が御出(おいで)の神幸祭、中旬が千種祭の還幸祭。中世には、猿楽や競馬などの芸能も盛んに行われていたという。

御出の神幸祭は、「センジョロ(千歳)」「マジョロヤ(万歳)」と唱え、緋縮緬の襷をかけた女児が、松明を持ち神輿の先行を務める。

千種祭は、もとは中世の田植え祭りで、久我家を讃えるものだったという。男児が五色の造花(花まき、厄除)で飾った古風牛車に乗り、神輿のお供をした。

境内社に、村上源氏の祖で、久我家の大祖である村上天皇第7皇子の具平親王(964年-1009年)を祀る具平宮(たいのみや)がある。

また、八幡宮・虫八幡宮(応神天皇)、住吉神社(底筒男神中筒男神上筒男神住吉三神)、粟島神社(少彦名命)がある。

当社公式サイトでも、当社を『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 乙訓郡「簀原神社」に比定される式内社(小社)とする説があることが紹介される。

ただし、当社の創建は『延喜式』の後なので、当社そのものが式内社の可能性はない。

しかし、当社から北方数百メートル、南区久世築山町に同名の神社があり、式内社「簀原神社」、そしてその末社が「走田神社」「茨田神社」の論社とされる。

この築山町の菱妻神社は当社の旧地に当たるか。京都府神社庁によれば、当社と築山町の菱妻神社は別々に記載(登録)されているようだ。

また、築山町の菱妻神社からさらに北方に、「簀原神社」旧跡の地があり、菱妻神社が関係している、とされるが、それが当社のことなのか、築山町のもののことなのかは不明。

築山町に式内社「簀原神社」があり、それが現在の築山町の菱妻神社そのものか、合祀したり、遷座したりと、関係があった、とする。

その上で、築山町の菱妻神社が当社の元宮、あるいは後継社など、何らかの関係があれば、当社が式内社(の参考社・後継社)、ということはできるかもしれない。

なお、式内社「走田神社」の論社は他に、走田神社がある。「茨田神社」の論社は他に、綾戸國中神社がある。

当社は1月に行われる近隣21社からなる乙訓鎮座神社巡りの一社である。

【ご利益】
水難除け、五穀豊穣、一族・子孫繁栄(公式HP
菱妻神社 京都府京都市伏見区久我石原町
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菱妻神社 京都府京都市伏見区久我石原町の御朱印