神武東遷で功をなした賀茂建角身命が山城に移住、墳墓の地、大宮
[住所]京都市京都市北区紫竹下竹殿町47
[電話]075-491-6800
久我神社(こがじんじゃ)は、京都府京都市京都市北区紫竹下竹殿町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 愛宕郡「久我神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の西約1キロの地に鎮座し、現在は上賀茂神社の境外摂社で、第八摂社。旧称は「氏神社」。
創建は不詳。当社は、賀茂氏が大和から山城に移住するに際して祀った社の一つ。
御祭神は、賀茂建角身命。八咫烏(やたがらす)と同一視される。『上賀茂神社文書』によれば、近世には国常立尊などの異説も存在した。
『山城国風土記』逸文によると、賀茂建角身命は初代神武天皇の東遷に功を成した後、大和から山城に移動した。
「山代の国の岡田の賀茂」が今の岡田鴨神社、「葛野川(桂川)と賀茂河(鴨川)との会う所」「久我の国の北の山基」が当社に該当するという。
当社が現在地に祀られたことに関しては、付近に賀茂建角身命の墳墓があったためとする伝承がある。
国史では、貞観元年(859年)に「久我神」の神階が正六位上から従五位下へ昇叙されたと見える。
当社は賀茂社の『嘉元年中行事』において末社としての記載が見えることから、平安時代後期頃から賀茂社の末社に列したと推測されている。
しかし、中世にはすでに賀茂氏の氏神としての性格は薄れ、郷民の社としての性格を強めていたという。
現在の本殿・拝殿は、江戸時代前期の寛永5年(1628年)の造営。本殿は一間社流造の形式で、檜皮葺の屋根であり、上賀茂神社の他摂社と同じ造り。
また拝殿は梁間一間・桁行二間の切妻造妻入で、屋根は同じく檜皮葺である。
貞享3年(1686年)の『雍州府志』では、境内は「大宮の森」と俗称されるが、敷地内には現在もその面影を伝えるケヤキの巨木を残している。
宝暦4年(1754年)の『山城名跡巡行志』では「紫竹の北端には大宮の森、一名を栢の森と呼ぶ古社があり、鳥居は西向きで拝殿は南向き」という記述がある。
近世以降、当社は主に「氏神社」や「大宮」と称されていたが、明治5年(1872年)に現社号に復称した。
なお、創建当時より当社は「大宮」と称され、一帯の地域名が「大宮」(大宮郷)、門前の通り名は「大宮通」と定められたとする伝えがある。
例祭は春祭が4月1日、秋祭が11月1日。「牽馬の儀(ひきうまのぎ)」として、上賀茂神社の神馬が本殿を3周する神事が行われる。
11月3日に神幸祭があり、大宮・待鳳・紫竹・元町の旧大宮郷四学区の氏子町内を神輿が巡行する。
境内社に歯神社(はがみのやしろ)がある。御祭神は、天神立命(あめのかんだちのみこと)。「はがみさん」と親しまれ、歯の病、歯の生えかわりのご利益があるという。
なお、天神立命は久我直などの祖とされ、当社の創祀と深くかかわっている可能性がある。
その他に境内社として、稲荷神社・春日神社、清正公社・八幡宮・天満宮がある。参道を横切る水路大井手川と森乃そり橋がある。
境内には礎石が安置されてる。もとは社殿造営時に用いられた石で、盗まれた。盗んだ者の身に神異が起き、その後、川中に埋もれていたものを、戦中に戻されたという。
由緒の上でも賀茂氏の移住伝承を現在に伝えており、京都の歴史を明らかにする環境を良好に残しているとして、境内は市の史跡に指定されている。
なお、市内伏見区にも、加茂社とゆかりの深い、乙訓郡の式内社「久何神社」に比定されている、現在は当社と同名の神社がある。
【ご利益】
航空安全、交通安全、スポーツ・技芸上達
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久我神社(こがじんじゃ)は、京都府京都市京都市北区紫竹下竹殿町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 愛宕郡「久我神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の西約1キロの地に鎮座し、現在は上賀茂神社の境外摂社で、第八摂社。旧称は「氏神社」。
創建は不詳。当社は、賀茂氏が大和から山城に移住するに際して祀った社の一つ。
御祭神は、賀茂建角身命。八咫烏(やたがらす)と同一視される。『上賀茂神社文書』によれば、近世には国常立尊などの異説も存在した。
『山城国風土記』逸文によると、賀茂建角身命は初代神武天皇の東遷に功を成した後、大和から山城に移動した。
「山代の国の岡田の賀茂」が今の岡田鴨神社、「葛野川(桂川)と賀茂河(鴨川)との会う所」「久我の国の北の山基」が当社に該当するという。
当社が現在地に祀られたことに関しては、付近に賀茂建角身命の墳墓があったためとする伝承がある。
国史では、貞観元年(859年)に「久我神」の神階が正六位上から従五位下へ昇叙されたと見える。
当社は賀茂社の『嘉元年中行事』において末社としての記載が見えることから、平安時代後期頃から賀茂社の末社に列したと推測されている。
しかし、中世にはすでに賀茂氏の氏神としての性格は薄れ、郷民の社としての性格を強めていたという。
現在の本殿・拝殿は、江戸時代前期の寛永5年(1628年)の造営。本殿は一間社流造の形式で、檜皮葺の屋根であり、上賀茂神社の他摂社と同じ造り。
また拝殿は梁間一間・桁行二間の切妻造妻入で、屋根は同じく檜皮葺である。
貞享3年(1686年)の『雍州府志』では、境内は「大宮の森」と俗称されるが、敷地内には現在もその面影を伝えるケヤキの巨木を残している。
宝暦4年(1754年)の『山城名跡巡行志』では「紫竹の北端には大宮の森、一名を栢の森と呼ぶ古社があり、鳥居は西向きで拝殿は南向き」という記述がある。
近世以降、当社は主に「氏神社」や「大宮」と称されていたが、明治5年(1872年)に現社号に復称した。
なお、創建当時より当社は「大宮」と称され、一帯の地域名が「大宮」(大宮郷)、門前の通り名は「大宮通」と定められたとする伝えがある。
例祭は春祭が4月1日、秋祭が11月1日。「牽馬の儀(ひきうまのぎ)」として、上賀茂神社の神馬が本殿を3周する神事が行われる。
11月3日に神幸祭があり、大宮・待鳳・紫竹・元町の旧大宮郷四学区の氏子町内を神輿が巡行する。
境内社に歯神社(はがみのやしろ)がある。御祭神は、天神立命(あめのかんだちのみこと)。「はがみさん」と親しまれ、歯の病、歯の生えかわりのご利益があるという。
なお、天神立命は久我直などの祖とされ、当社の創祀と深くかかわっている可能性がある。
その他に境内社として、稲荷神社・春日神社、清正公社・八幡宮・天満宮がある。参道を横切る水路大井手川と森乃そり橋がある。
境内には礎石が安置されてる。もとは社殿造営時に用いられた石で、盗まれた。盗んだ者の身に神異が起き、その後、川中に埋もれていたものを、戦中に戻されたという。
由緒の上でも賀茂氏の移住伝承を現在に伝えており、京都の歴史を明らかにする環境を良好に残しているとして、境内は市の史跡に指定されている。
なお、市内伏見区にも、加茂社とゆかりの深い、乙訓郡の式内社「久何神社」に比定されている、現在は当社と同名の神社がある。
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