室町時代に宮座が分裂、各村が宝物を持ち出して同名神社が林立
[住所]兵庫県篠山市見内1-3
[電話]079-552-0704
二村神社(ふたむらじんじゃ)は、兵庫県篠山市見内にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「二村神社(丹波国・多紀郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
真南条・味間奥・西吹などに同名の神社があるが、これは後述の分裂により生じたもので、『式内調査報告』では、見内(古市見内)が式内社としている。
創祀は不詳。伊邪那岐命・伊邪那美命を祀り、二村大神と総称する。奈良時代の天平勝宝2年(750年)、小野道風の筆による額が下賜されたという。
室町時代の文明14年(1482年)、神事の際、騒動が勃発、宮座が分裂するという事態となり、この状況が現在も続く。
資料によれば、当社は酒井・大山・宮田・小野原の四庄の氏神だったが、祭礼の当日、酒井庄の座席の争いが起き、和解することができなかった。
これにより、各村の氏子はそれぞれ当社の宝物を持ち出し、自村へ持って帰ったという。
味間は神輿を、真南条は御神体を、板井は獅子頭やその他を、西吹は馬具を、栗栖は鉾幣を、遅れて馳せ参じた矢代新はもはや何も残っておらず、椀の箱だけを持って帰ったという。
こうして、いずれの村でも二村神社を号する社を建て、祭祀し、自村で祭礼を行うことになったのだという。
腕箱だけを持って帰った矢代新村では、椀箱祭として今でも続けられている。
御神体を持ち帰った真南条では、名主が清流で御神像を浄め、宮の谷奥にある山の磐座に御神像を安置して祀ったという。
その後、御神体を山中においたままではもったいないと、山裾を切開き遷座したのが、真南条の二村神社の現在地だという。
真南条の秋祭りは、「真南条の喧嘩祭り」として有名で、四人の子供を乗せた太鼓神輿が互いにぶつかり合う勇壮なものだったが、現在は途絶えている。
見内について、元亀元年(1570年)5月、鳥居が造営された。天正6年(1578年)、兵火により焼失。江戸時代前期の延宝6年(1678年)、復興した。
明治5年(1872年)に社殿を造営し、翌明治6年(1873年)10月、村社に列した。例祭は10月9日。
【ご利益】
地域安全、夫婦和合、家内安全、諸問題の解決

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・兵庫県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、兵庫県に鎮座している神社の一覧
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二村神社(ふたむらじんじゃ)は、兵庫県篠山市見内にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「二村神社(丹波国・多紀郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
真南条・味間奥・西吹などに同名の神社があるが、これは後述の分裂により生じたもので、『式内調査報告』では、見内(古市見内)が式内社としている。
創祀は不詳。伊邪那岐命・伊邪那美命を祀り、二村大神と総称する。奈良時代の天平勝宝2年(750年)、小野道風の筆による額が下賜されたという。
室町時代の文明14年(1482年)、神事の際、騒動が勃発、宮座が分裂するという事態となり、この状況が現在も続く。
資料によれば、当社は酒井・大山・宮田・小野原の四庄の氏神だったが、祭礼の当日、酒井庄の座席の争いが起き、和解することができなかった。
これにより、各村の氏子はそれぞれ当社の宝物を持ち出し、自村へ持って帰ったという。
味間は神輿を、真南条は御神体を、板井は獅子頭やその他を、西吹は馬具を、栗栖は鉾幣を、遅れて馳せ参じた矢代新はもはや何も残っておらず、椀の箱だけを持って帰ったという。
こうして、いずれの村でも二村神社を号する社を建て、祭祀し、自村で祭礼を行うことになったのだという。
腕箱だけを持って帰った矢代新村では、椀箱祭として今でも続けられている。
御神体を持ち帰った真南条では、名主が清流で御神像を浄め、宮の谷奥にある山の磐座に御神像を安置して祀ったという。
その後、御神体を山中においたままではもったいないと、山裾を切開き遷座したのが、真南条の二村神社の現在地だという。
真南条の秋祭りは、「真南条の喧嘩祭り」として有名で、四人の子供を乗せた太鼓神輿が互いにぶつかり合う勇壮なものだったが、現在は途絶えている。
見内について、元亀元年(1570年)5月、鳥居が造営された。天正6年(1578年)、兵火により焼失。江戸時代前期の延宝6年(1678年)、復興した。
明治5年(1872年)に社殿を造営し、翌明治6年(1873年)10月、村社に列した。例祭は10月9日。
【ご利益】
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