秦の始皇帝を祀る大辟神、広隆寺ゆかり、秦河勝とも、10月に牛祭
[住所]京都府京都市右京区太秦蜂岡町
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大酒神社(おおさけじんじゃ)は、京都府京都市右京区太秦蜂岡町にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 葛野郡「大酒神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

創建に関して、『広隆寺来由記』によれば、第14代仲哀天皇の時に渡来した秦の始皇帝の後裔である功満王が「秦始皇之祖神」を勧請したことに始まるという。

主祭神は、秦始皇帝・弓月王(ゆんずのきみ)・秦酒公(はたのさけのきみ)。相殿に呉服女こと兄媛命(えひめのみこと)、漢織女こと弟媛命(おとひめのみこと)を祀る。

現在は広隆寺の東隣に小祠として鎮座するが、明治の神仏分離以前には広隆寺の桂宮院内に鎮座する伽藍神だった。

国史では、嘉祥2年(849年)に山城国葛野郡の「大辟神」が霊験のある社であるとして従五位下の神階に叙せられた旨が記されている。

『延喜式』神名帳には特に「元名大辟神」とある。兵庫県赤穂市坂越に秦河勝ゆかりの大避神社がある。当社もどちらにしろ秦氏ゆかり。

『広隆寺来由記』では、「大酒大明神」の神階が順次昇叙され、治暦4年(1068年)には正一位の極位に達した旨が記されている。

また同記では、延喜年間(901年-923年)に広隆寺に勧請された鎮守38所の1所として「大酒 正一位」とある。

南北朝時代の『空華日工集』以降、文献では広隆寺桂宮院の鎮守社として見え、広隆寺とともに推移した。

明治維新後、神仏分離によって現在地に移転、村社に列した。

例祭は、もとは旧暦9月12日、現在は10月12日で、牛祭(うしまつり)。長和年間(1012年-1017年)に源信(恵心僧都)が念仏守護神として麻多羅神を勧請したのに始まる。

江戸時代の祭の様子は『都名所図会』にも描かれている。異形の面をつけた麻多羅神役の者が牛に乗り、四天王・行列を従えて広隆寺境内を練り歩き、最後に薬師堂前で祭文を読み上げる。

京都の三大奇祭の一つに数えられ、市の無形民俗文化財に指定されている。

境内社に木枯神社(大国主命)がある。『日本三代実録』貞観4年(862年)条の「木枯神」に比定される国史見在社の可能性があるという。

『広隆寺来由記』に「木枯明神」とあり、薬師如来像を広隆寺に迎えた際、向日明神が広隆寺門前の槻の木を枯らしたが、この神を「木枯明神」として別に祀ると槻の木は蘇ったという。

旧鎮座地の社叢は「木枯杜(こがらしのもり、木枯森)」と称された。「木枯森」は、『枕草子』第194段の「森は」で取り上げられるほか、『後撰和歌集』などで歌枕としても見えるが、異論がある。

他に、三神の社(瓊々杵尊)、八幡社(応神天皇)、稲積社(宇迦御魂神)がある。

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大酒神社 京都府京都市右京区太秦蜂岡町
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