平安期の創祀、幕末に石清水八幡宮が避難、伝統の大住隼人舞が復興
[住所]京都府京田辺市大住池平31
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月讀神社(つきよみじんじゃ)は、京都府京田辺市大住池平にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 綴喜郡「月読神社(山城国・綴喜郡)」に比定される式内社(大社、月次・新嘗)。

平安時代の大同4年(809年)、創祀と伝わる。御祭神は月読命。後世に伊邪那岐尊伊邪那美尊が配祀された。

『日本三代実録』に、平安時代の貞観元年(859年)正月27日、從五位下樺井月読神社に正五位下を授けるとある。

近隣に所在した樺井月神社とともに神階が上がったと考えられる。樺井月神社は江戸期に他所に遷座した。当社は元慶6年(877年)に従一位に達する。

承暦元年(1077年)、天然痘のまん延に対して、勅使が参向したと伝わる。

往古から大住村の生活の中心をなし、大住村が京都の曇華院領であったことから、後述のように、今も同院との関係が続いている。

鎌倉時代の建久6年(1196年)、源頼朝が神領(神馬とも)を寄進、貞応2年(1222年)には社殿が造営されたという。

しかし、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、兵火により社殿が焼失。南北朝時代の貞治3年(1365年)、葛野義威が再興した。

至徳3年(1387年)、御牧の伊豆前司基貞と大住飛騨守義季と争い、兵火のため焼失した。康応元年(1389年)、修復された。

戦国時代の天文11年(1542年)、大住城主大住石見守元保と八講寺城主東長門盛章などが社殿のため勧進能を行った。

別当は法輪山(宝生山)福養寺で、中世から長い間、当社は御霊社と呼ばれていた。

明治維新に際して、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時、当社に遷座した。その御神宝が当社の薬師堂に安置されたという。

六坊を有し、強盛を誇った福養寺も明治に入って廃絶。当社北に隣接する大住小学校は、六坊の中の「北の坊」の旧地だという。

明治26年(1893年)、本殿を改築し、帝室技芸委員で名古屋の伊藤平左衛門の設計により竣工した。これが今の社殿である。

大正13年(1920年)、東宮御成婚記念として、社務所の大修理が行われた。

例祭は10月15日。宵宮の10月14日には『古事記』にも描かれた「大住隼人舞」「隼人踊り」が奉納される。市の無形文化財に指定されている。

これらは近年復興されたものだが、能楽五座のうち、外山座(宝生座)が当社の外山神楽座であることも分かっており、その起源は古い。宝生座発祥の碑が境内にある。

当社そのものも奈良時代及びそれ以前の隼人移住者により創祀され、祭祀が行われてきたとの指摘もある。大住は大隅であり、南九州、薩摩との関連が分析されている。

式内社の神奈備神社が鎮座する甘南備山頂に月読神が降臨し、それを奉斎したとも伝わり、その影向石が実際に薪神社で奉斎されている。

また、宵宮の献饌を10月15日に当社が持参して、嵯峨の曇華院門跡に献上するのを例としている。

境内社に、若宮八幡宮(誉田天皇)、厳島神社(市杵島姫命)、塞神社(道友大神)、宇賀神社(宇迦能売命)、事比羅神社(事代主神)、天満宮(菅原天神)がある。

なお、当社、樺井月神社の旧社地、水主神社水度神社、水度神社の旧社地である鴻の巣山の峯続きにあたる大神宮山は、すべて一直線上にあり、夏至の日の日の出を指しているという。

【ご利益】
五穀豊穣、事業成功、地域安全
月讀神社 京都府京田辺市大住池平
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