『延喜式神名帳』に十座と記された雨乞いの超大社、境内に別の式内
[住所]京都府城陽市水主宮馬場30
[電話]0774-54-0195
水主神社(みずしじんじゃ)は、京都府城陽市水主宮馬場にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 久世郡「水主神社十座」に比定される式内社(大社)。近代社格では府社。
創祀年代は不詳。当地の豪族である水主直がその祖である玉勝山代根子命を山背大国魂命神として奉斎し、その系譜に基づき10柱を祀ったものと考えられている。
御祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊・天香語山命・天村雲命・天忍男命・建額赤命・建筒草命・建田背命・建諸隅命・倭得玉彦命・山背大国魂命。
大国魂(大國魂)とは国土経営を意味し、そうそう冠することのできない神名。
第10代崇神天皇の時代、淳名城入姫命に倭大国魂命ならびに山背大国魂命を、倭・山背の二国に奉斎させたという。
この山背での奉斎が当社に相応するとされる。倭での奉斎は、大和国の大和神社か。
『続日本後紀』には、承和11年(844年)5月甲辰に水主神が授従五位下とある。
神階に関しては、貞観元年(859年)正月27日に從四位下、貞観8年(866年)11月20日に從四位上と進む。
前後して、加茂両社(上賀茂・下鴨)・松尾・稲荷・住吉大社とともに朝廷より新年祈雨の奉幣があったという。
貞観年間(859年-877年)にはたびたび風雨や五穀豊饒に関する祈願が行われている。
『延喜式』神名帳において、特に「並大 月次新嘗、就中同水主坐天照御魂神、水主坐山背大國魂命神二座、預二相嘗祭一」と記されている。
十座と記されたのは当社以外にない。ほとんどは記載なしの一座、あっても二座や三座ぐらい、というのが、『延喜式』神名帳の全体的な基準。
上賀茂・下鴨、熱田神宮などは境内社・境外社も含めて多数の式内を抱え、宇佐八幡宮も単体で三座の名神大社とされるなどの事例はある。
それらを鑑みたとしても、当社のこの十座は、それら今でも全国規模の大社に比肩する待遇と考えられる。
大縫命・小縫命を配祀する。天香語山命の子天村雲命の九世孫で、第13代成務天皇の時代に、、志賀高穴穂宮に仕え、糸縫針の職にあったという。
そのため、その子孫に衣縫の氏を与えられ、当社でもこの2神を衣縫の祖大神、衣縫の宮、衣縫大神として祀る。荒見神社などともに豪族水主氏との関係もうかがえる。
南北朝時代の貞治5年(1366年)、年中行事歌合で祈雨として歌われ、この時なお、雨乞の神として信仰されていたと考えられている。
江戸時代前期の寛文12年(1672年)、木津川が氾濫した後に、樺井月神社が当社境内に遷座した。
樺井月神社はやはり式内社で、『延喜式』神名帳では綴喜郡に記載される。もともとは京田辺市大住に鎮座していた。
樺井月神社は、月読命を御祭神とし古来より牛馬の神として崇敬された。旧地の大住には現在もやはり式内社である月讀神社がある。
この大住の月讀神社、樺井月神社の旧社地、当社、水度神社、水度神社の旧社地である鴻の巣山の峯続きにあたる大神宮山は、すべて一直線上にあり、夏至の日の日の出を指しているという。
式内社「水主神社」「樺井月神社」は、神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「水主社十座」「樺井社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。
当社の例祭は10月2日、現在は10月第1日曜日。樺井月神社の例祭は2月20日で、牛馬攘疫祭・牛馬安全祈願祭と呼ばれ、伝統を引き継いでいる。
なお、『延喜式』神名帳では、讃岐国 大内郡に当社と同名の神社がある。
【ご利益】
祈雨・天候、牛馬・農耕の守護神、一族・子孫繁栄
【関連記事】
・祈雨神祭85座とは? - 畿内の式内大社で祈雨・雨乞いに霊験が強い52社85柱の神々
・京都府の旧府社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
・京都府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、京都府に鎮座している神社の一覧
[電話]0774-54-0195
水主神社(みずしじんじゃ)は、京都府城陽市水主宮馬場にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 久世郡「水主神社十座」に比定される式内社(大社)。近代社格では府社。
創祀年代は不詳。当地の豪族である水主直がその祖である玉勝山代根子命を山背大国魂命神として奉斎し、その系譜に基づき10柱を祀ったものと考えられている。
御祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊・天香語山命・天村雲命・天忍男命・建額赤命・建筒草命・建田背命・建諸隅命・倭得玉彦命・山背大国魂命。
大国魂(大國魂)とは国土経営を意味し、そうそう冠することのできない神名。
第10代崇神天皇の時代、淳名城入姫命に倭大国魂命ならびに山背大国魂命を、倭・山背の二国に奉斎させたという。
この山背での奉斎が当社に相応するとされる。倭での奉斎は、大和国の大和神社か。
『続日本後紀』には、承和11年(844年)5月甲辰に水主神が授従五位下とある。
神階に関しては、貞観元年(859年)正月27日に從四位下、貞観8年(866年)11月20日に從四位上と進む。
前後して、加茂両社(上賀茂・下鴨)・松尾・稲荷・住吉大社とともに朝廷より新年祈雨の奉幣があったという。
貞観年間(859年-877年)にはたびたび風雨や五穀豊饒に関する祈願が行われている。
『延喜式』神名帳において、特に「並大 月次新嘗、就中同水主坐天照御魂神、水主坐山背大國魂命神二座、預二相嘗祭一」と記されている。
十座と記されたのは当社以外にない。ほとんどは記載なしの一座、あっても二座や三座ぐらい、というのが、『延喜式』神名帳の全体的な基準。
上賀茂・下鴨、熱田神宮などは境内社・境外社も含めて多数の式内を抱え、宇佐八幡宮も単体で三座の名神大社とされるなどの事例はある。
それらを鑑みたとしても、当社のこの十座は、それら今でも全国規模の大社に比肩する待遇と考えられる。
大縫命・小縫命を配祀する。天香語山命の子天村雲命の九世孫で、第13代成務天皇の時代に、、志賀高穴穂宮に仕え、糸縫針の職にあったという。
そのため、その子孫に衣縫の氏を与えられ、当社でもこの2神を衣縫の祖大神、衣縫の宮、衣縫大神として祀る。荒見神社などともに豪族水主氏との関係もうかがえる。
南北朝時代の貞治5年(1366年)、年中行事歌合で祈雨として歌われ、この時なお、雨乞の神として信仰されていたと考えられている。
江戸時代前期の寛文12年(1672年)、木津川が氾濫した後に、樺井月神社が当社境内に遷座した。
樺井月神社はやはり式内社で、『延喜式』神名帳では綴喜郡に記載される。もともとは京田辺市大住に鎮座していた。
樺井月神社は、月読命を御祭神とし古来より牛馬の神として崇敬された。旧地の大住には現在もやはり式内社である月讀神社がある。
この大住の月讀神社、樺井月神社の旧社地、当社、水度神社、水度神社の旧社地である鴻の巣山の峯続きにあたる大神宮山は、すべて一直線上にあり、夏至の日の日の出を指しているという。
式内社「水主神社」「樺井月神社」は、神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「水主社十座」「樺井社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。
当社の例祭は10月2日、現在は10月第1日曜日。樺井月神社の例祭は2月20日で、牛馬攘疫祭・牛馬安全祈願祭と呼ばれ、伝統を引き継いでいる。
なお、『延喜式』神名帳では、讃岐国 大内郡に当社と同名の神社がある。
【ご利益】
祈雨・天候、牛馬・農耕の守護神、一族・子孫繁栄
【関連記事】
・祈雨神祭85座とは? - 畿内の式内大社で祈雨・雨乞いに霊験が強い52社85柱の神々
・京都府の旧府社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
・京都府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、京都府に鎮座している神社の一覧
コメント