三島大神の3番目の后、その子らである式内四社を合祀、役所跡や巨木
[住所]東京都三宅村大字神着
[電話]-
御笏神社(おしゃくじんじゃ)は、東京都三宅村神着にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「佐伎多麻比咩命神社(伊豆国・賀茂郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
創建は不詳。御祭神は佐伎多麻比咩命で、『三宅記』によれば、三島大神(事代主命)の3番目の后。
社名は、式内社「佐伎多麻比咩命神社」の「佐伎」に、尊称の「御」が付き、さらに変化したとも、古笏を御神体として祀るからともされる。
御神体に関しては、『三宅記』に記載された、三島大神が託した石笏だともされる。
もとは現在地の東600-700メートル付近の東郷の山に鎮座していたが、戦国時代の永正13年(1516年)、あるいは天文3年(1534年)、神託により遷座した。
明治7年(1874年)7月3日、雄山の噴火によって、旧社地である東郷は全滅したという。
なお、式内社「佐伎多麻比咩命神社」の論社は他に、静岡県下田市相玉の波夜多麻和気命神社、同じく須崎の両神社がある。
また、平成の噴火で旧鳥居・社殿が埋没したことで知られる椎取神社こそが式内社「佐伎多麻比咩命神社」の旧地ではないかとの説がある。
もともと当社は境内社として14社あったが、現在は稲荷神社、金刀比羅神社、天王神社など以外、本殿に合祀されているという。
その中には式内論社が四つ含まれている。いずれも、『三宅記』にある、三宅島にいた八人の王子ゆかり。
峯指神社は、式内社「波夜志命神社」の論社。当社御祭神の第八王子「ひんすけ」を祀る。もとは風速山山頂に鎮座。「波夜志」は、「早風」の意で、早風神社・峯指神社・風拝神社などとも。
「波夜志命神社」の論社は他に、静岡県下田市大賀茂の走湯神社がある。
勝祖神社は、式内社「片菅命神社」の論社で、当社御祭神の第七王子「かたすけ」を祀る。明治までは「勝租大天狗飯縄宮」と称し、明治以降は片菅命。もとは東方にあり「カツソノ社」と呼ばれた。
「片菅命神社」の論社は他に、同村神着美茂井の片菅神社、伊ヶ谷に鎮座する后神社の境内社である若宮神社、静岡県東伊豆町片瀬の片菅神社がある。
二宮神社は、式内社「加彌命神社」の論社で、当社御祭神の第二王子「かね」を祀る。もとは、島内東南部山側にあった「カミノ杜」に鎮座した。
その後、東郷に遷座し、第二王子を祀ることから二宮神社となった。東郷の旧地には山の神と呼ばれる石祠がある。
「加彌命神社」の論社は他に、同村坪田の二宮神社に合祀された、あるいは静岡県下田市吉佐美の八幡宮がある。
以上三社はいずれも、明治7年の噴火で当社境内に遷座、その後、本殿に合祀された。
また、三ノ朔幣神社は、式内社「南子神社」の論社で、当社御祭神の第一王子「なこ」を祀る。当社南の南子山鎮座の南子神社の、あるいは島内南西の富賀神社の遥拝所だったとも。
現在は、当社本殿に合祀されている。「南子神社」の論社は、南子山鎮座の南子神社の他に、后神社の境内社である南子宮がある。
毎年7月に行われる天王祭は、江戸時代後期の文政3年(1820年)の頃から伝わる島内屈指の大祭で、木遣太鼓や神輿渡御は、夏を告げる島の風物詩。
当社から道路を隔てた場所に「島役所跡」がある。当社との遷座にも関連して、移転したと伝わる。現存の木造建築物では伊豆諸島で最古最大の規模。都の文化財。
その前の庭には、ビャクシンの巨木がある。当社が東郷から遷座した直後に植えられたと伝わり、樹齢500年前後。都の天然記念物。
【ご利益】
子宝・安産、一族・子孫繁栄、地域振興
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御笏神社(おしゃくじんじゃ)は、東京都三宅村神着にある神社。御朱印の有無は不明。
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創建は不詳。御祭神は佐伎多麻比咩命で、『三宅記』によれば、三島大神(事代主命)の3番目の后。
社名は、式内社「佐伎多麻比咩命神社」の「佐伎」に、尊称の「御」が付き、さらに変化したとも、古笏を御神体として祀るからともされる。
御神体に関しては、『三宅記』に記載された、三島大神が託した石笏だともされる。
もとは現在地の東600-700メートル付近の東郷の山に鎮座していたが、戦国時代の永正13年(1516年)、あるいは天文3年(1534年)、神託により遷座した。
明治7年(1874年)7月3日、雄山の噴火によって、旧社地である東郷は全滅したという。
なお、式内社「佐伎多麻比咩命神社」の論社は他に、静岡県下田市相玉の波夜多麻和気命神社、同じく須崎の両神社がある。
また、平成の噴火で旧鳥居・社殿が埋没したことで知られる椎取神社こそが式内社「佐伎多麻比咩命神社」の旧地ではないかとの説がある。
もともと当社は境内社として14社あったが、現在は稲荷神社、金刀比羅神社、天王神社など以外、本殿に合祀されているという。
その中には式内論社が四つ含まれている。いずれも、『三宅記』にある、三宅島にいた八人の王子ゆかり。
峯指神社は、式内社「波夜志命神社」の論社。当社御祭神の第八王子「ひんすけ」を祀る。もとは風速山山頂に鎮座。「波夜志」は、「早風」の意で、早風神社・峯指神社・風拝神社などとも。
「波夜志命神社」の論社は他に、静岡県下田市大賀茂の走湯神社がある。
勝祖神社は、式内社「片菅命神社」の論社で、当社御祭神の第七王子「かたすけ」を祀る。明治までは「勝租大天狗飯縄宮」と称し、明治以降は片菅命。もとは東方にあり「カツソノ社」と呼ばれた。
「片菅命神社」の論社は他に、同村神着美茂井の片菅神社、伊ヶ谷に鎮座する后神社の境内社である若宮神社、静岡県東伊豆町片瀬の片菅神社がある。
二宮神社は、式内社「加彌命神社」の論社で、当社御祭神の第二王子「かね」を祀る。もとは、島内東南部山側にあった「カミノ杜」に鎮座した。
その後、東郷に遷座し、第二王子を祀ることから二宮神社となった。東郷の旧地には山の神と呼ばれる石祠がある。
「加彌命神社」の論社は他に、同村坪田の二宮神社に合祀された、あるいは静岡県下田市吉佐美の八幡宮がある。
以上三社はいずれも、明治7年の噴火で当社境内に遷座、その後、本殿に合祀された。
また、三ノ朔幣神社は、式内社「南子神社」の論社で、当社御祭神の第一王子「なこ」を祀る。当社南の南子山鎮座の南子神社の、あるいは島内南西の富賀神社の遥拝所だったとも。
現在は、当社本殿に合祀されている。「南子神社」の論社は、南子山鎮座の南子神社の他に、后神社の境内社である南子宮がある。
毎年7月に行われる天王祭は、江戸時代後期の文政3年(1820年)の頃から伝わる島内屈指の大祭で、木遣太鼓や神輿渡御は、夏を告げる島の風物詩。
当社から道路を隔てた場所に「島役所跡」がある。当社との遷座にも関連して、移転したと伝わる。現存の木造建築物では伊豆諸島で最古最大の規模。都の文化財。
その前の庭には、ビャクシンの巨木がある。当社が東郷から遷座した直後に植えられたと伝わり、樹齢500年前後。都の天然記念物。
【ご利益】
子宝・安産、一族・子孫繁栄、地域振興
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