安閑朝創建の男衾郡総鎮守、荒川の洪水で遷座、山岡鉄舟の揮毫
[住所]埼玉県大里郡寄居町富田1508
[電話]048-584-2880
小被神社(おぶすまじんじゃ)は、埼玉県大里郡寄居町富田にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 男衾郡「小被神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
社伝によると、第27代安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿が郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したのが当社の始まり。
現在までに、主神は瓊々杵尊。その妻である木花開耶姫命と、子である彦火火出見尊を相殿に祀る。
富田鹿については不詳だが、当社祭祀に関与した氏族として、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族である壬生吉志氏がいる。
『類聚三代格』『続日本後紀』などによれば、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和8年(841年)、自らの子供の生涯の調庸を全納。
承和12年(845年)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した。男衾郡総鎮守である当社に対しても、壬生吉志氏が関与していた可能性があるという。
壬生吉志氏に関しては、稲乃比売神社や、滑川町伊古の伊古乃速御玉比売神社との関連も指摘される。
鎌倉時代になると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けた。
『武蔵七党系図』によると、猪俣時範の子、重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。
両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。
この不動寺境内の「大明神御下屋敷」と呼ばれる地が、当社の旧鎮座地だったという。
移転については、天正年間(1573年-1592年)の荒川の洪水により右岸にあった赤浜村が対岸に移住したことにより、富田村との境界争いになった。
この赤浜村の洪水については、町内赤浜の出雲乃伊波比神社に関連伝承が残る。富田村民は江戸時代初期、当社を村境に移転し、境界争いを解決した。
『新編武蔵風土記稿』によれば、当社の別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺。
明治になると、神仏分離により不動寺は当社から分離、明治2年(1869年)、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して当社の神職となった。
明治40年(1907年)、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀。
境内には今も、中郷愛宕神社、谷津白山神社、塚越稲荷神社、下郷内の宮社、牛頭天王宮などの社や、石祠、富士浅間大神などがある。
現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろうとされる。
当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれたもの。
このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に掛けられず、社務所内に掛けてあるという。
例祭は、4月第2日曜日が春祭で、神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せて行う。10月第2日曜日が秋祭。
【ご利益】
家内安全、子宝・安産、一族・子孫繁栄
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小被神社(おぶすまじんじゃ)は、埼玉県大里郡寄居町富田にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 男衾郡「小被神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
社伝によると、第27代安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿が郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したのが当社の始まり。
現在までに、主神は瓊々杵尊。その妻である木花開耶姫命と、子である彦火火出見尊を相殿に祀る。
富田鹿については不詳だが、当社祭祀に関与した氏族として、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族である壬生吉志氏がいる。
『類聚三代格』『続日本後紀』などによれば、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和8年(841年)、自らの子供の生涯の調庸を全納。
承和12年(845年)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した。男衾郡総鎮守である当社に対しても、壬生吉志氏が関与していた可能性があるという。
壬生吉志氏に関しては、稲乃比売神社や、滑川町伊古の伊古乃速御玉比売神社との関連も指摘される。
鎌倉時代になると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けた。
『武蔵七党系図』によると、猪俣時範の子、重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。
両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。
この不動寺境内の「大明神御下屋敷」と呼ばれる地が、当社の旧鎮座地だったという。
移転については、天正年間(1573年-1592年)の荒川の洪水により右岸にあった赤浜村が対岸に移住したことにより、富田村との境界争いになった。
この赤浜村の洪水については、町内赤浜の出雲乃伊波比神社に関連伝承が残る。富田村民は江戸時代初期、当社を村境に移転し、境界争いを解決した。
『新編武蔵風土記稿』によれば、当社の別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺。
明治になると、神仏分離により不動寺は当社から分離、明治2年(1869年)、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して当社の神職となった。
明治40年(1907年)、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀。
境内には今も、中郷愛宕神社、谷津白山神社、塚越稲荷神社、下郷内の宮社、牛頭天王宮などの社や、石祠、富士浅間大神などがある。
現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろうとされる。
当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれたもの。
このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に掛けられず、社務所内に掛けてあるという。
例祭は、4月第2日曜日が春祭で、神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せて行う。10月第2日曜日が秋祭。
【ご利益】
家内安全、子宝・安産、一族・子孫繁栄
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