通称「松原さま」、境内2社も国史記載の式内社、9月末に五日市祭り
[住所]東京都あきる野市五日市1081
[電話]042-596-0560
阿伎留神社(あきるじんじゃ)は、東京都あきる野市五日市にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 多磨郡「阿伎留神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創建は不詳。社名は「阿伎留」「阿伎瑠」「秋留」「畔切」などとも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。
秋川の段丘上に鎮座し、眼下には水田が広がる。「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。
現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。
御祭神は味耜高彦根神。大物主神・建夷鳥神も併せて祀る。
『日本三代実録』元慶8年(884年)7月15日条に、正五位下勲六等畔切神に従四位下を授けた旨が記され、以後時代につれて定時の奉幣加階が行われた。
天慶3年(940年)、鎮守府将軍の藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(天児屋根命)を勧請したことから、中世以降「春日大明神」と称された。
また鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれた。
鎌倉時代以後は武将の崇敬も篤く、源頼朝・足利尊氏・後北条氏からそれぞれ神領が寄進された。
徳川家康は、江戸入府の翌年天正19年(1591年)11月、武蔵国多西郡秋留郷松原の内で10石を寄せた。
それ以後代々の将軍は、家康の先例に従って、同じ土地を寄進し、その朱印状12通が残されている。
江戸時代には神主は触頭(ふれがしら)をつとめ、触下(ふれした)は秋川流域から小河内にいたり28人。
6月、9月の末日を年中二度の大祭と称し、これらの神主が二班に分かれ、当社頭で武運長久、天下泰平の祈祷が行われた。
明治に入り、明治6年(1873年)12月に郷社に列し、明治40年(1907年)5月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
社殿は天保元年(1830年)の五日市大火により、末社・神主宅に至るまで一切が灰燼に帰した。幕末となり、再建が完了したのは明治21年(1888年)11月。
それ以後も社頭の整備が進んだが、昭和41年(1966年)9月の台風25号により、杉、檜など大木が100本以上倒れ、昼なお暗かった境内林は半減した。
例祭は9月28日で例大祭。この日から9月30日までが五日市祭り。600キロとされる六角神輿を先頭に、子ども神輿を含めた7基の神輿が町内を練り歩く。
神輿の担ぎだしの前には、露払いとして獅子舞がつき、舞を演じられる。市を代表する祭りの一つで、夜は檜原街道沿いに数多くの露店が出て賑わう。
9月第2週の二宮神社、9月第3週の正一位岩走神社、9月第4週の当社のそれぞれの例大祭をあわせて、あきる野三大まつりと総称される。
境内末社に、3社合祭(大鳥神社・若電神社・熊野神社)、4社合祭(菅原神社・小川神社・占方神社・倭建命神社)、6社合祭(日枝神社・伊多弓神社・松尾神社・平野神社・庭津日神社・国造社)、4社合祭(稲荷神社・松原稲荷神社・白光稲荷神社・福穂稲荷神社)がある。
このうち若電神社と伊多弓神社は、それぞれ『日本三代実録』貞観6年(864年)7月27日条、貞観6年(865年)12月26日条に記載される「若雷神」「伊多之神」に比定される。式外の国史見在社。
境外末社に、入野峰山頂に鎮座する琴平神社、中入野熊野山に鎮座する熊野神社がある。
狩野谿運久信筆の美しく彩色された年中十二祭神事絵巻、建武五年(1338年)の銘があるが、径30センチの台盤のみの懸仏台盤、武州南一揆文書 6通が市指定有形文化財。
【ご利益】
平穏安寧、地域安全、地域振興、五穀豊穣、子孫繁栄
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阿伎留神社(あきるじんじゃ)は、東京都あきる野市五日市にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 多磨郡「阿伎留神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創建は不詳。社名は「阿伎留」「阿伎瑠」「秋留」「畔切」などとも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。
秋川の段丘上に鎮座し、眼下には水田が広がる。「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。
現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。
御祭神は味耜高彦根神。大物主神・建夷鳥神も併せて祀る。
『日本三代実録』元慶8年(884年)7月15日条に、正五位下勲六等畔切神に従四位下を授けた旨が記され、以後時代につれて定時の奉幣加階が行われた。
天慶3年(940年)、鎮守府将軍の藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(天児屋根命)を勧請したことから、中世以降「春日大明神」と称された。
また鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれた。
鎌倉時代以後は武将の崇敬も篤く、源頼朝・足利尊氏・後北条氏からそれぞれ神領が寄進された。
徳川家康は、江戸入府の翌年天正19年(1591年)11月、武蔵国多西郡秋留郷松原の内で10石を寄せた。
それ以後代々の将軍は、家康の先例に従って、同じ土地を寄進し、その朱印状12通が残されている。
江戸時代には神主は触頭(ふれがしら)をつとめ、触下(ふれした)は秋川流域から小河内にいたり28人。
6月、9月の末日を年中二度の大祭と称し、これらの神主が二班に分かれ、当社頭で武運長久、天下泰平の祈祷が行われた。
明治に入り、明治6年(1873年)12月に郷社に列し、明治40年(1907年)5月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
社殿は天保元年(1830年)の五日市大火により、末社・神主宅に至るまで一切が灰燼に帰した。幕末となり、再建が完了したのは明治21年(1888年)11月。
それ以後も社頭の整備が進んだが、昭和41年(1966年)9月の台風25号により、杉、檜など大木が100本以上倒れ、昼なお暗かった境内林は半減した。
例祭は9月28日で例大祭。この日から9月30日までが五日市祭り。600キロとされる六角神輿を先頭に、子ども神輿を含めた7基の神輿が町内を練り歩く。
神輿の担ぎだしの前には、露払いとして獅子舞がつき、舞を演じられる。市を代表する祭りの一つで、夜は檜原街道沿いに数多くの露店が出て賑わう。
9月第2週の二宮神社、9月第3週の正一位岩走神社、9月第4週の当社のそれぞれの例大祭をあわせて、あきる野三大まつりと総称される。
境内末社に、3社合祭(大鳥神社・若電神社・熊野神社)、4社合祭(菅原神社・小川神社・占方神社・倭建命神社)、6社合祭(日枝神社・伊多弓神社・松尾神社・平野神社・庭津日神社・国造社)、4社合祭(稲荷神社・松原稲荷神社・白光稲荷神社・福穂稲荷神社)がある。
このうち若電神社と伊多弓神社は、それぞれ『日本三代実録』貞観6年(864年)7月27日条、貞観6年(865年)12月26日条に記載される「若雷神」「伊多之神」に比定される。式外の国史見在社。
境外末社に、入野峰山頂に鎮座する琴平神社、中入野熊野山に鎮座する熊野神社がある。
狩野谿運久信筆の美しく彩色された年中十二祭神事絵巻、建武五年(1338年)の銘があるが、径30センチの台盤のみの懸仏台盤、武州南一揆文書 6通が市指定有形文化財。
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平穏安寧、地域安全、地域振興、五穀豊穣、子孫繁栄
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