標高742メートルの惣岳山山頂に奥宮、真名井の霊泉、明治期に里宮
[住所]東京都青梅市沢井3-1060
[電話]-
青渭神社(あおいじんじゃ)は、東京都青梅市沢井にある神社。標高742メートルの惣岳山山頂に奥宮がある、その里宮である。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 多磨郡「青渭神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
もとは里宮はなく、奥宮のみだった。惣岳とは近傍の各神社を総管する意味から名付けられたという。旧称は、青渭大名院・惣岳大明神など。
山頂近くに真名井と呼ばれる、一年中涸渇することのない霊泉があり、別名青渭の井とも称され、社名の由来となった。
社伝によれば、創建は第10代崇神天皇の御代。国中に疫病が流行ったことから各地の神々に祈念したが、当社にも神地が寄進され、創祀。主祭神は大国主命。
この点は、市内根ヶ布に鎮座する虎柏神社とも共通している。
平安時代の承平年間(931年-938年)、源経基が任国した際も深く崇敬され、社殿を経営したという。
その後の、三田、北条、徳川の各領主にも厚く崇敬され、歴代領主が社の経営に尽力した。
山頂近くに「いちこの墓」と呼ばれる三基の板碑があり、そのうちの一基は南北朝時代の建武4年(1337年)の年号がある。
慶長年間(1596年-1614年)の沢井村検地帳にも、除地一町五反余と記載されている。
江戸時代初期の慶長8年(1603年)、社殿焼失。さらにその後、二度の火災により社宝、社記、古文書類がことごとく焼失したという。
現在の本殿は弘化2年(1845年)の再建。明治初期に山麓に拝殿が建てられ、祭事は多くここで行われるようになった。
昭和9年(1934年)、拝殿を改築して現在の形となった。現在は山頂に奥宮、この麓が里宮として運営され、里宮に本殿が移され、山頂は奥の院と呼ばれている。
昭和35年(1960年)、社殿や境内の整備とともに、近郷の26社を合祀したとも、あるいは境外社・境内社としたともされる。
例祭は4月18日。現在はその前後の日曜日に斎行される。
なお、式内社「青渭神社」の論社は他に、調布市深大寺元町と稲城市東長沼にそれぞれ同名の神社がある。
【ご利益】
病気平癒、身体壮健、地域安全

【関連記事】
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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青渭神社(あおいじんじゃ)は、東京都青梅市沢井にある神社。標高742メートルの惣岳山山頂に奥宮がある、その里宮である。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 多磨郡「青渭神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
もとは里宮はなく、奥宮のみだった。惣岳とは近傍の各神社を総管する意味から名付けられたという。旧称は、青渭大名院・惣岳大明神など。
山頂近くに真名井と呼ばれる、一年中涸渇することのない霊泉があり、別名青渭の井とも称され、社名の由来となった。
社伝によれば、創建は第10代崇神天皇の御代。国中に疫病が流行ったことから各地の神々に祈念したが、当社にも神地が寄進され、創祀。主祭神は大国主命。
この点は、市内根ヶ布に鎮座する虎柏神社とも共通している。
平安時代の承平年間(931年-938年)、源経基が任国した際も深く崇敬され、社殿を経営したという。
その後の、三田、北条、徳川の各領主にも厚く崇敬され、歴代領主が社の経営に尽力した。
山頂近くに「いちこの墓」と呼ばれる三基の板碑があり、そのうちの一基は南北朝時代の建武4年(1337年)の年号がある。
慶長年間(1596年-1614年)の沢井村検地帳にも、除地一町五反余と記載されている。
江戸時代初期の慶長8年(1603年)、社殿焼失。さらにその後、二度の火災により社宝、社記、古文書類がことごとく焼失したという。
現在の本殿は弘化2年(1845年)の再建。明治初期に山麓に拝殿が建てられ、祭事は多くここで行われるようになった。
昭和9年(1934年)、拝殿を改築して現在の形となった。現在は山頂に奥宮、この麓が里宮として運営され、里宮に本殿が移され、山頂は奥の院と呼ばれている。
昭和35年(1960年)、社殿や境内の整備とともに、近郷の26社を合祀したとも、あるいは境外社・境内社としたともされる。
例祭は4月18日。現在はその前後の日曜日に斎行される。
なお、式内社「青渭神社」の論社は他に、調布市深大寺元町と稲城市東長沼にそれぞれ同名の神社がある。
【ご利益】
病気平癒、身体壮健、地域安全

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