日本武尊が創祀、鎌倉期に聖天宮を勧請、明治に分離、式内二社の論社
[住所]埼玉県熊谷市妻沼字大我井1480
[電話]048-571-2939

大我井神社(おおがいじんじゃ)は、埼玉県熊谷市妻沼大我井にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 播羅郡「白髪神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

第12代景行天皇40年の創建だという。日本武尊が東征の際、軍糧豊饒のために二柱大神を相殿二神に合祭、大我井の森に稲置を設置したという。

一説に、奈良時代に入植した渡来系氏族が、聖地としての大我井の森で奉斎したのに始まるとも。

鎌倉時代前後、治承3年(1179年)に当地を支配した斎藤実盛が聖天社を勧進し、建久8年(1197年)には歓喜院を開設した。

以来、総鎮守として崇敬されるが、もともとの白髪神社としての信仰は薄れたという。

特に室町時代後期、成田郷を本貫とし、忍城主となった成田氏の保護を受けた。これは妻沼の地が成田氏所領の騎西領に属し、庶民の崇敬を受けていたためとされる。

成田氏が去った後も、徳川家に崇敬され、歓喜院聖天宮として、慶長9年(1604年)に社殿を造営した。また、この際、幕府から朱印地50石が与えられたとも。

明治元年(1868年)12月、神仏分離により、聖天宮の境内を分割し、東側に伊邪那岐神伊邪那美神を祀る二柱神社を建立した。

この時、住僧と神職の争いがあり、神職が主導権を握ったものの、氏子は寺院側に味方し、聖天宮そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営することになった。

明治2年(1869年)、社名を古来以来の森の名にちなむ現社号に改称して、社殿を造営した。

明治6年(1873年)3月、村社に列し、明治40年(1907年)10月、神饌幣帛料供進社に指定された。

明治42年(1909年)10月、八幡社を合祀。その唐門を大正2年(1913年)10月に当社の西門として移築した。この唐門は、江戸時代中期の明和7年(1770年)に建立されたもの。

現在までに、大己貴命を配祀し、倉稲魂命誉田別命天照皇大神・速玉男命・事解男命・天穂日命石凝姥命菅原道真を合祀する。

例祭は4月17日。境内には富士浅間大神の富士塚がある。8月27日に行われる「大我井神社火祭り」と呼ばれる祭事は、この富士浅間神社の神事。

聖天宮が式内社「白髪神社」とも、あるいは式内社「楡山神社」ともされる。ただ、どちらにしろ聖天宮は鎌倉期に整備されたもので、式内社たりえない。

しかし、当社自体が式内社「白髪神社」の論社とともに、式内社「楡山神社」の論社ともされる。

式内社「白髪神社」の論社は他に、市内妻沼女体の白髪神社、市内東別府の東別府神社、深谷市東方の熊野大神社がある。

式内社「楡山神社」の論社は他に、深谷市原郷の榆山神社、市内久保島の久保島大神社がある。

【ご利益】
五穀豊穣、家内安全、夫婦和合
大我井神社 埼玉県熊谷市妻沼字大我井
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