『出雲国風土記』「闇見の国の総社」、式内2社と風土記記載3社を奉斎
[住所]島根県松江市新庄町994
[電話]-
久良彌神社(くらみじんじゃ)は、島根県松江市新庄町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「久良弥神社(出雲国・島根郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。御祭神は諸説あるが、闇於加美神。『出雲国風土記』にある「闇見の国の総社」が当社であるという。
闇見の国は、西は佐陀川、伊東、東は手角ち稲積の地溝から西、南は大川以北だという。この地の水の神として、農業や各種産業を信仰させた神として崇敬された。
同じく式内社である「同社坐波夜都武自別神社」をいずれかの時期に合祀し、現在は速都牟自別神も併せて祀る。
この両社は、『出雲国風土記』では「久良彌社」と「同波夜都武志社」とある。
『日本文徳天皇実録』によれば、波夜都武自別神社は仁寿元年(851年)9月、従五位下を授けられた。
もともとは現在地の南西約1キロ奥の久良彌谷(椋見谷)に別々に祀られていたもので、現在でもその地には宮床・モト宮の地名が残るという。
この地には別に、『出雲国風土記』記載の「椋見社」である椋見神社(都留支日子神)もあったという。
江戸時代になり、その前期の元和9年(1633年)、大洪水に襲われたため、現在地に遷座し、社殿が建立された。
式内2社と、それを含む風土記記載3社、つまり「久良彌社」「波夜都武志社」「椋見社」が併せて祀られ、また、この時に豊受媛神が奉斎されたという。
明治2年(1869年)、郷社に列し、嶋根郡六十六区内郷社として現社号に改称、12ヶ村の総氏神となった。
明治42年(1909年)、幣帛供進神社に指定され、明治45年(1912年)には日御碕社(素盞鳴尊)、諏訪神社(建御名方命)を合祀した。
昭和37年(1962年)11月3日、大遷宮が斎行された。
【ご利益】
家内安全・交通安全・安産厄災除け・産業振興

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『延喜式神名帳』にある「久良弥神社(出雲国・島根郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。御祭神は諸説あるが、闇於加美神。『出雲国風土記』にある「闇見の国の総社」が当社であるという。
闇見の国は、西は佐陀川、伊東、東は手角ち稲積の地溝から西、南は大川以北だという。この地の水の神として、農業や各種産業を信仰させた神として崇敬された。
同じく式内社である「同社坐波夜都武自別神社」をいずれかの時期に合祀し、現在は速都牟自別神も併せて祀る。
この両社は、『出雲国風土記』では「久良彌社」と「同波夜都武志社」とある。
『日本文徳天皇実録』によれば、波夜都武自別神社は仁寿元年(851年)9月、従五位下を授けられた。
もともとは現在地の南西約1キロ奥の久良彌谷(椋見谷)に別々に祀られていたもので、現在でもその地には宮床・モト宮の地名が残るという。
この地には別に、『出雲国風土記』記載の「椋見社」である椋見神社(都留支日子神)もあったという。
江戸時代になり、その前期の元和9年(1633年)、大洪水に襲われたため、現在地に遷座し、社殿が建立された。
式内2社と、それを含む風土記記載3社、つまり「久良彌社」「波夜都武志社」「椋見社」が併せて祀られ、また、この時に豊受媛神が奉斎されたという。
明治2年(1869年)、郷社に列し、嶋根郡六十六区内郷社として現社号に改称、12ヶ村の総氏神となった。
明治42年(1909年)、幣帛供進神社に指定され、明治45年(1912年)には日御碕社(素盞鳴尊)、諏訪神社(建御名方命)を合祀した。
昭和37年(1962年)11月3日、大遷宮が斎行された。
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