神話の里、富田月山の山頂に鎮座する富田城の鎮守、尼子氏の崇敬
[住所]島根県安来市広瀬町大字富田782
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勝日高守神社(かつひたかもりじんじゃ)は、島根県安来市広瀬町の富田月山山頂にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「勝日高守神社(出雲国・意宇郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

『古事記』にある、国造りの途中で、少彦名命が常世の国に帰り、大国主命が途方に暮れていると、神が現れ、大国主命と神が対面する、その場所とされている。

『古事記』では、三輪山、つまり現在の奈良県桜井市の大神神社を連想させて、この説話は唐突に終了する。

第29代欽明天皇31年、月山の山頂に大国主命の幸魂神を当社として、山麓に大己貴命を勝日神社として祀ったのが創祀。

社名の高守は奥宮の意。里宮である勝日神社に対する奥宮。御祭神は、大己貴幸魂神で、現在は月夜見神を配祀する。

月山原と勝日山と呼ばれる境内に「かがみ石」と号する巌石がある。大国主命がここで神光を認めたために命名されたもの。

当地より北に海洋を眺め、山麓は当時入り海だった。今、山麓に塩谷と云う氏子地があり、往昔が海湾だったことの証拠とされる。

『出雲国風土記』に「加豆比高社」と出てくる。平安時代の嘉祥4年(851年)正月には正六位上に叙された。

平安時代末期、保元・平治年間(1156年-1159年)に平家の武将平景清が富田城築城にあたって、勝日神社を現在地である富田八幡宮の地に遷座。

同時に、当社を城の鎮守と定め、崇敬した。その伝統は後の尼子氏にも受け継がれた。

江戸時代には「高守大明神」と称し、江戸時代中期の宝暦3年(1753年)4月11日、江戸時代後期の文政7年(1824年)2月26日に社殿を造営した記録が残る。

明治5年(1872年)、村社に列し、昭和10年(1935年)2月25日、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月16日。

【ご利益】
事業成功、武運長久・勝運、開運招福
勝日高守神社 島根県安来市広瀬町富田
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