大堰川沿岸に鎮座、一時期は丹波二宮、子供の無事成長を願う例祭
小川月神社 京都府亀岡市馬路町月読16
[住所]京都府亀岡市馬路町月読16
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小川月神社(おがわつきじんじゃ)は、京都府亀岡市馬路町月読にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「小川月神社(丹波国・桑田郡)」に比定される式内社(名神大社)。近代社格では村社。

大堰川の左岸(東側)に鎮座しているが、大堰川を挟んだ西方、千代川町に小川という字名があり、『和名抄』に見える「桑田郡小川郷」の遺称地。

そのため、かつての大堰川は当社の東を流れ、当社一帯も小川郷に含まれていたと考えられている。当社の東方を流れる古川が大堰川の流路変更の名残とも。

創建は不詳だが、大堰川を遡る形で秦氏による開発が進み、それにともなって創祀されたと考えられている。

御祭神は月読命。大堰川沿いには他にも松尾大社系の神社があり、下流の松尾大社摂社である葛野坐月読神社との関係が指摘される。

氏子総代保管の『丹波国桑田郡小川月神社之事』によれば、伊勢の神宮(伊勢神宮)が丹後国与謝郡に遷座した時の末社とも、丹波国に鎮座していた時の末社ともする。

元伊勢には丹波国に皇大神宮(内宮)の吉佐宮と、豊受大神宮(外宮)の与佐之小見比治之魚井原があるが、丹後国にはない。

「神代よりの旧地なり」だという。また、亀岡市千歳町の出雲神社の鎮座よりも古いとされ、出雲神社と同等の神社という意味で、桑田郡の「第二之大社也」とも記す。

『日本三代実録』天安3年(859年)1月27日条に、小川月神が従五位下から従五位上に昇叙した旨が見える。

社伝によれば、鎌倉時代に、北条時頼が廻国の途中に参拝し、家臣の人見次郎貞村という者に当社守護を命じ、長らく人見家が30代にわたって奉仕してきた。

現在は、氏子総代が維持経営にあたっている。

かつては、丹波国二宮ともされた時期があったという。ただし、一般的に丹波国二宮は京丹後市大宮町の大宮売神社とされる。

『神社明細帳』によれば、応仁年間(1467年-1469年)に大堰川の洪水によって社地を流失し、以後小祠として祀られるようになった。大堰川の流路変更を物語る。

大堰川対岸の千代川町小川にも同じく月読命を祀る月読神社が存在するが、これは大堰川の流路変更によって当社と隔てられた人々が新しく氏神として当社を勧請したもの。

なお、亀岡市馬路町と同市千代川町を結ぶ大堰川の橋を、両岸に月読命を祀る神社があることから、地方政治家である堤太三吉により「月読橋」と名付けられた。

明治以前には月読社・月読神社を称し、現在でも「つきよみさん」と呼ばれて親しまれている。

明治になって村社に列したが、明治10年(1877年)に式内名神大社に比定され、同年6月の府名義の確認書に「月読社 延喜式内小川月神社ニ相違無之候」とある。

境内は南丹高校南部の田畑の中に立つ。当社を中心に1.3ヘクタールの田地の地名が「月読」で、この田地が昔の神域であったのではないかと推測されている。

境内は「小川月神社」として、市により亀岡の自然100選に選ばれている。

本殿は一間社流造で、覆屋内に立っている。また、拝殿は方1間妻入瓦葺で、年不明ながら出雲大神宮より遷されたものであると伝える。

例祭は10月16日。その1年間に誕生した子供全員の祈祷をする慣例がある。由緒は不明ながらも地域全体で子供たちの無事な成長を願うもの。

【ご利益】
子育て、身体壮健、厄災除け、五穀豊穣
小川月神社 京都府亀岡市馬路町月読
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