他に見えない当地守護神、隠岐一宮・総社と同等の崇敬、貴重な神事
宇受賀命神社 島根県隠岐郡海士町宇受賀747
[住所]島根県隠岐郡海士町宇受賀747
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宇受賀命神社(うつかみことじんじゃ)は、島根県隠岐郡海士町宇受賀にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 山陰道神 隠岐国 海部郡「宇受加命神社」に比定される式内社(名神大社)。近代社格では郷社。

島前の中ノ島の北端にあたる宇受賀部落の外れ、丘上に鎮座する。創祀の年代や事由は不明。宇受賀命(うずかのみこと)を祀る。

「宇須賀宮」や「宇津賀大明神」などと称され、一貫してこの地の守護神として祀られてきた。記紀や他には見えない神。

嘉吉年間(1441年-1444年)に炎上して縁起を焼失したため、詳細は不詳だが、もとは現在地から北方150間(約270メートル)隔たった、海面から36、7尺程(約10メートル)の高さの断崖上に鎮座していたという。

『続日本後紀』に承和9年(842年)、由良比女命神(由良比女神社)、水若酢命神(水若酢神社)とともに官社に預かった。

『延喜式神名帳』隠岐国四大社の一社で、『隠岐国神名帳』にも「従一位宇酒賀大明神」と記載されている。

中世を通じて、国衙や守護職から重きを置かれ、鎌倉時代の文明7年(1271年)に当地の田荘と目代から祭祀料として国衙領の中の田地2段(720坪)が寄進された。

室町時代の明徳4年(1392年)、在地豪族である源満重から正月に1段、8月に修理料用として2段の田地が寄進された。寄進状には「公私御祈祷所」とある。

嘉吉2年(1442年)には社領6町1反あまり(およそ2万2000坪)が守護使不入の権利とともに安堵された。

安土桃山時代の天正10年(1582年)、隠岐守護代佐々木(隠岐)経清が2名内から4段半と280歩の田地を寄進した。

以上の崇敬度合いから、当社を中世における隠岐国一宮とする説もあるが、これは隠岐国ではなく海部郡の一宮または惣社(総社)とするのが妥当だという。

一般的に、隠岐国一宮は水若酢神社・由良比女神社とされる。

応永5年(1398年)、同11年、同19年、同21年、永禄9年(1566年)、文禄5年(1596年)などの奥書を持つ大般若経284巻も残されている。現在は町指定有形文化財。

近世には社領10石を有し、寛文7年(1667年)の『隠州視聴合紀』に「前に花表(鳥居)を立て瑞籬(瑞垣)長し」と当時の様子が記されている。

明治5年(1872年)10月、郷社に列し、戦後は神社本庁に参加している。

例祭はもともとは6月11日、現在は7月11日。9月29日に御座替神事、10月29日に御座入神事があったというが、現在は廃絶している。

御座替神事は、島根県松江市の佐太神社のものが著名で、同神社では現在も神座の茣蓙を敷き替える神事として行われている。

御座入神事は、現在も島後の神社では行われ、旧暦10月の神在祭に参加して還御した神々に暖かく休んでもらうために、社殿の側面を茣蓙で覆うもの。

この出雲と隠岐島後でそれぞれ行われている二つの神事が同時に行われていた社として、貴重だとされる。

本殿は大正6年(1917年)の造替にかかる桁行3間の銅板葺屋根の隠岐造で、町の有形文化財に指定されている。他に幣殿や拝殿などがある。

現本殿の間数は2間半四方だが、明治初年の『神社取調帳』では3間四方となっており、かつては隠岐国一宮・水若酢神社や総社玉若酢命神社の本殿と同規模、もしくはそれ以上の規模だったという。

【ご利益】
地域安全、地域振興、家内安全、一族・子孫繁栄
宇受賀命神社 島根県隠岐郡海士町宇受賀
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