平安初期の鎮座、壱岐氏、中世から中津宮と呼ばれた式内名神論社
[住所]長崎県壱岐市勝本町北触226
[電話]-
中津神社(なかつじんじゃ)は、長崎県壱岐市勝本町北触にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「中津神社」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では村社。
平安時代初期の弘仁2年(811年)10月1日に鎮座したと伝わる。御祭神は、天津日高彦火瓊々杵尊・天児屋根命・天太玉命。
室町時代の享徳3年(1454年)2月17日、新庄村中津宮造営とみえ、中古は「中津宮」と呼ばれていたことが分かる。
江戸時代に入っても、万治4年(1661年)、中津宮の造営とある。延宝4年(1676年)、橘三喜により式内社「中津神社」に査定され、藩主松浦鎮信から木鏡の御正体と烏居の石額が献納された。
ただし、『式内社調査報告』では、式内社「中津神社」は社名から考えて海の近くに鎮座していたはずで、当社には合致していないと指摘。
勝本港にある聖母宮が式内社「中津神社」であり、当地の中津神社は祠官であった壱岐氏が居城近くに分祀したものであろうとしている。
明治41年(1908年)、佐肆布津神社を合祀した。佐肆布津神社も式内社で、御祭神は経津主命。
佐肆布津神社の旧地には、石祠や鳥居などを残すのみながら、今でも御祭神が乗ってきた船とされる大石を御神体として奉斎されている。
なお、壱岐郡の式内社には佐肆布津神社が二社記載されている。当社合祀のものは一番目に記載されたもの。
二番目に「同」の字がついて記載されているものの論社に、芦辺町箱崎大左右触の式内同名神社と金刀比羅神社がある。
例祭は3月14日。社殿前は整地され、運動公園のようになっており、中腹の鳥居横には北触公民館があり、地域住民の憩いの場になっている。
【ご利益】
地域安全、地域振興、家内安全

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平安時代初期の弘仁2年(811年)10月1日に鎮座したと伝わる。御祭神は、天津日高彦火瓊々杵尊・天児屋根命・天太玉命。
室町時代の享徳3年(1454年)2月17日、新庄村中津宮造営とみえ、中古は「中津宮」と呼ばれていたことが分かる。
江戸時代に入っても、万治4年(1661年)、中津宮の造営とある。延宝4年(1676年)、橘三喜により式内社「中津神社」に査定され、藩主松浦鎮信から木鏡の御正体と烏居の石額が献納された。
ただし、『式内社調査報告』では、式内社「中津神社」は社名から考えて海の近くに鎮座していたはずで、当社には合致していないと指摘。
勝本港にある聖母宮が式内社「中津神社」であり、当地の中津神社は祠官であった壱岐氏が居城近くに分祀したものであろうとしている。
明治41年(1908年)、佐肆布津神社を合祀した。佐肆布津神社も式内社で、御祭神は経津主命。
佐肆布津神社の旧地には、石祠や鳥居などを残すのみながら、今でも御祭神が乗ってきた船とされる大石を御神体として奉斎されている。
なお、壱岐郡の式内社には佐肆布津神社が二社記載されている。当社合祀のものは一番目に記載されたもの。
二番目に「同」の字がついて記載されているものの論社に、芦辺町箱崎大左右触の式内同名神社と金刀比羅神社がある。
例祭は3月14日。社殿前は整地され、運動公園のようになっており、中腹の鳥居横には北触公民館があり、地域住民の憩いの場になっている。
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