平安初期の勧請となる日吉山王権現、江戸期に混乱の末に式内比定
[住所]長崎県壱岐市芦辺町深江本村触1616
[電話]-
兵主神社(ひょうすじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町深江本村触にある神社。兵主神社の一つ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「兵主神社」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では村社。
平安時代初期の弘仁2年(811年)、山城国日吉山王を勧請した。御祭神は、素盞嗚尊・大己貴神・事代主神。
比叡山から村の卯辰の海辺一の瀬に到着し、今の京徳の丘である谷山に鎮座した。この際の勧請の供をしたのが、京徳・甫久・大宝の三氏で、当社家となった。
古号は「日吉山王権現」。仁寿元年(851年)正月には正六位上に叙された。
戦国時代の永緑10年(1567年)4月28日の棟札には山王三七社、江戸時代初期の慶長8年(1603年)4月29日の棟札に日吉山王三七社とある。
江戸時代前期、延宝4年(1676年)、橘三喜が当社を聖母神社に査定した。現在の聖母神社が、式内社「兵主神社」とされた。
しかし、箱崎八幡宮の祠官吉野末益が異を唱え、延宝7年(1679年)、当社が式内社「兵主神社」に比定され、聖母神社は復称した。
元緑4年(1691年)2月には国主源任が御旗二流を、江戸時代中期の賓永4年(1707年)11月には国主源棟が御矛二本をそれぞれ寄進した。
正徳5年(1715年)に正一位に叙され、現在は正一位兵主神社と称した。社領高2石、社殿再建ごとに国主より白銀5枚が寄進されたという。
平戸藩主が一貫して崇敬した神社で、大祭に際しては神幸式、流鏑馬の神事が馬廻りの武士の代参のもと執行された、壱岐の神社十七社の一つ。
明治9年(1877年)12月4日、村社に列し、大正3年(1914年)6月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
例祭は10月20日。現在は、高御祖神社の兼務神社。なお、式内社「兵主神社」の論社は他に、本宮八幡神社がある。
【ご利益】
厄災除け、病気平癒、商売繁盛
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比叡山から村の卯辰の海辺一の瀬に到着し、今の京徳の丘である谷山に鎮座した。この際の勧請の供をしたのが、京徳・甫久・大宝の三氏で、当社家となった。
古号は「日吉山王権現」。仁寿元年(851年)正月には正六位上に叙された。
戦国時代の永緑10年(1567年)4月28日の棟札には山王三七社、江戸時代初期の慶長8年(1603年)4月29日の棟札に日吉山王三七社とある。
江戸時代前期、延宝4年(1676年)、橘三喜が当社を聖母神社に査定した。現在の聖母神社が、式内社「兵主神社」とされた。
しかし、箱崎八幡宮の祠官吉野末益が異を唱え、延宝7年(1679年)、当社が式内社「兵主神社」に比定され、聖母神社は復称した。
元緑4年(1691年)2月には国主源任が御旗二流を、江戸時代中期の賓永4年(1707年)11月には国主源棟が御矛二本をそれぞれ寄進した。
正徳5年(1715年)に正一位に叙され、現在は正一位兵主神社と称した。社領高2石、社殿再建ごとに国主より白銀5枚が寄進されたという。
平戸藩主が一貫して崇敬した神社で、大祭に際しては神幸式、流鏑馬の神事が馬廻りの武士の代参のもと執行された、壱岐の神社十七社の一つ。
明治9年(1877年)12月4日、村社に列し、大正3年(1914年)6月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
例祭は10月20日。現在は、高御祖神社の兼務神社。なお、式内社「兵主神社」の論社は他に、本宮八幡神社がある。
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