南北朝期の怨霊・新田義興を祀る、平賀源内考案の破魔矢の元祖
[住所]東京都大田区矢口1-21-23
[電話]03-3758-1397
新田神社(にったじんじゃ)は、東京都大田区矢口にある神社。近代社格では府社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
新田義貞の次男であり、南朝の忠臣である新田義興は、父の義貞・兄の義顕の戦死後も南朝方の中心として、新田一族を率いて武蔵野合戦など各地を転戦していた。
鎌倉公方足利基氏は義興の進出を畏れ、少将局という美女を利用し、義興の暗殺を謀ったが、少将局が裏切り、失敗。少将局は殺害され、現在は女塚神社に祀られている。
その後、足利尊氏が没した正平13年・延文3年(1358年)、10月10日の夜明けに多摩川河畔の矢口の渡しに誘い出された義興は、結局謀殺される。
しかし、その首謀者や協力者に怪異・不幸が続き、義興の怨霊も実際に現れて猛威を振るったため、近隣の住民が義興の霊を鎮めるために墳墓の前に新田明神社を創建した。
これが当社の創祀。後に新田大明神として尊崇されるようになった。
江戸時代になると、徳川氏が新田氏の末裔であるとされていることもあり、武家信仰の神社として大いに信仰された。
江戸時代中期の延享3年(1746年)、石城国守山藩主松平頼寛が「矢口新田神君之碑」を造立した。現在は区の有形文化財に指定されている。
宝暦年間(1751年-1764年)の末、義興の矢と称して門前の茶店で売られたものをヒントに、平賀源内が新たに魔除けとして考案した。
参拝客は2本の矢を買って1本は神殿に供え、もう1本を持ち帰って魔除けにした。後にこの矢守が全国に拡がり「破魔矢」の元祖となったという。
明治になり、明治4年(1871年)には社殿が造営され、明治6年(1873年)、府社に列した。明治42年(1909年)、勅命により祭神新田義興公に従三位が追贈された。
昭和35年(1960年)、社殿が再建され、昭和52年(1977年)には新たに宝物殿を造営。平成20年(2008年)、鎮座650年大祭を執行し、記念として枝垂れ桜を植樹した。
例祭は10月10日。御祭神の命日で、午前11時より大祭式を斎行。13時より15時頃まで立身流矢口支部による「古武道奉納演武」が行われる。
社殿の後方に15メートルほどの円墳があり、義興の遺骸を埋めた墳墓(胴塚)と伝わる。柵で囲われており、古来よりその中に入ると必ず祟りがあるといわれ、「荒山」「迷い塚」などの呼び名もある。
なお、義興の首塚は、足利基氏が首実検したとされる地、現在の埼玉県入間市の愛宕神社にある。
樹齢700年といわれるケヤキの古木が御神木。第二次世界大戦の空襲を受け、雷に当たって引き裂かれてしまったが奇跡的に枯れず、新緑の頃になると若葉が茂る。
江戸時代前期の延宝4年(1676年)にまとめられた『新田大明神縁起絵』が伝わる。現在は都指定有形文化財。
室町時代初期の新田義興公御真筆などの古文書、新田義興愛用の品と伝えられる和鞍や各種奉納武具、書跡・絵画類、工芸品も多数。
なお、千葉県大網白里市永田には、やはり義興を祀る矢口神社がある。当社を勧請したものかどうかは不明。
【ご利益】
諸願成就、厄災除け、無病息災
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[電話]03-3758-1397
新田神社(にったじんじゃ)は、東京都大田区矢口にある神社。近代社格では府社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
新田義貞の次男であり、南朝の忠臣である新田義興は、父の義貞・兄の義顕の戦死後も南朝方の中心として、新田一族を率いて武蔵野合戦など各地を転戦していた。
鎌倉公方足利基氏は義興の進出を畏れ、少将局という美女を利用し、義興の暗殺を謀ったが、少将局が裏切り、失敗。少将局は殺害され、現在は女塚神社に祀られている。
その後、足利尊氏が没した正平13年・延文3年(1358年)、10月10日の夜明けに多摩川河畔の矢口の渡しに誘い出された義興は、結局謀殺される。
しかし、その首謀者や協力者に怪異・不幸が続き、義興の怨霊も実際に現れて猛威を振るったため、近隣の住民が義興の霊を鎮めるために墳墓の前に新田明神社を創建した。
これが当社の創祀。後に新田大明神として尊崇されるようになった。
江戸時代になると、徳川氏が新田氏の末裔であるとされていることもあり、武家信仰の神社として大いに信仰された。
江戸時代中期の延享3年(1746年)、石城国守山藩主松平頼寛が「矢口新田神君之碑」を造立した。現在は区の有形文化財に指定されている。
宝暦年間(1751年-1764年)の末、義興の矢と称して門前の茶店で売られたものをヒントに、平賀源内が新たに魔除けとして考案した。
参拝客は2本の矢を買って1本は神殿に供え、もう1本を持ち帰って魔除けにした。後にこの矢守が全国に拡がり「破魔矢」の元祖となったという。
明治になり、明治4年(1871年)には社殿が造営され、明治6年(1873年)、府社に列した。明治42年(1909年)、勅命により祭神新田義興公に従三位が追贈された。
昭和35年(1960年)、社殿が再建され、昭和52年(1977年)には新たに宝物殿を造営。平成20年(2008年)、鎮座650年大祭を執行し、記念として枝垂れ桜を植樹した。
例祭は10月10日。御祭神の命日で、午前11時より大祭式を斎行。13時より15時頃まで立身流矢口支部による「古武道奉納演武」が行われる。
社殿の後方に15メートルほどの円墳があり、義興の遺骸を埋めた墳墓(胴塚)と伝わる。柵で囲われており、古来よりその中に入ると必ず祟りがあるといわれ、「荒山」「迷い塚」などの呼び名もある。
なお、義興の首塚は、足利基氏が首実検したとされる地、現在の埼玉県入間市の愛宕神社にある。
樹齢700年といわれるケヤキの古木が御神木。第二次世界大戦の空襲を受け、雷に当たって引き裂かれてしまったが奇跡的に枯れず、新緑の頃になると若葉が茂る。
江戸時代前期の延宝4年(1676年)にまとめられた『新田大明神縁起絵』が伝わる。現在は都指定有形文化財。
室町時代初期の新田義興公御真筆などの古文書、新田義興愛用の品と伝えられる和鞍や各種奉納武具、書跡・絵画類、工芸品も多数。
なお、千葉県大網白里市永田には、やはり義興を祀る矢口神社がある。当社を勧請したものかどうかは不明。
【ご利益】
諸願成就、厄災除け、無病息災
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