天皇即位の大嘗祭の翌年に挙行された難波の八十島祭、国土の守護神
生嶋巫祭神二座 いわゆる生島神・足島神。写真は大阪の難波宮址
[住所]東京都千代田区千代田1-1
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生嶋巫祭神二座(いくしまのみかんなぎごさいじんにざ)は、『延喜式』巻9・10神名帳 宮中京中 宮中坐神 神祇官西院坐御巫等祭神「生嶋巫祭神二座」に比定される式内社(大社、月次新嘗)である。

また、『延喜式』祝詞にも記載されている。

「いくしまののみかんなぎのまつるかみにざ」とも。『古事記』には登場しない、下記の2柱を指す。

・生島神(いくしまのかみ)
・足島神(たるしまのかみ)

同じ神格の威力をイク・タルと対にして表現したもので、『古語拾遺』と『先代旧事本紀』には「大八洲之霊也」とあり、日本全体の国魂を表現したものとされる。

神祇官西院では、最重要視される大御巫8神は八神殿に東向きで祀られていたが、他の座摩巫5柱御門巫8柱・当2柱は北庁内に南向きで祀られた。

平安時代、天皇が即位して大嘗祭を挙行した翌年、必ず八十嶋神祭(八十島祭)が難波の浜辺で行われた。

この祭典には、新しく即位した天皇の乳母で、内侍に任命された女官が祭使となり、生島巫や神祇官の役人を引き連れ、下向する。

そして、天皇の御衣を納めた箱を持参し、その蓋を開いて、海に向かって振るという神事を行う。

それ以前の奈良時代には、天皇が自ら難波に行幸し、この神事を行ったとも伝わる。

当2柱含む神祇官の祭祀は、中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持された。しかし、その後応仁の乱頃までには完全に廃絶したとされる。

同じく衰退し、明治になり復興した八神殿が、天神地祇などを合祀して「神殿」となった際、その天神地祇には当2柱も含まれているとされる。

であれば、当2柱は現在、皇居の宮中三殿の一つ神殿に継承されていることになる。

長野県上田市下之郷に生島足島神社があり、当2柱と同じ御祭神を祀り、関連が指摘される。

諏訪・建御名方富命という強力な神霊を、日本全体の国魂をもって抑えようとしたために分祀されたのかもしれない。

そうであれば、『古事記』の国譲り神話には描かれていない逸話ということになる。

また、大阪府大阪市天王寺区には生國魂神社がある。ここは、初代神武天皇が奉斎した伝承が残り、先の八十島祭との関連をうかがわせる。

この生國魂神社は、同じく宮中奉斎神の一つである座摩巫祭神五座との関連が指摘される大阪府大阪市中央区の座摩神社とあわせ、朝廷による難波の重視を示しているとの見解がある。

【ご利益】
天皇陛下のしらす国土の守護神
生嶋巫祭神二座 いわゆる生島神・足島神
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『延喜式神名帳』神祇官西院23座の同心円構造
・天皇の身体 御巫等祭神八座
・宮殿の敷地 座摩巫祭神五座
・門の守護神 御門巫祭神八座
・国土の神霊 生嶋巫祭神二座