神武天皇以来の伝統、天皇の健康を祈願する、出雲系などの神々
[住所]東京都千代田区千代田1-1
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御巫等祭神八座(みかんなぎなどさいじんはちざ)は、『延喜式』巻9・10神名帳 宮中京中 宮中坐神 神祇官西院坐御巫等祭神(大社、月次新嘗)にある8柱の神々の総称である。
御巫祭神八座とも、「みかんなぎのまつるかみはちざ」とも。宮中の八つの神殿に祀られていたため、平安時代以降は八神殿(はっしんでん)という名称が広く普及、定着した。
『延喜式』神名帳宮中の神祇官西院坐御巫等祭神23座、さらに『延喜式』神名帳全体としても、その筆頭に掲げられた神々。式内社の中でも最上の格式があると考えられる。
第一殿 神産日神(かみむすびのかみ)
第二殿 高御産日神(たかみむすびのかみ)
第三殿 玉積産日神(たまつめむすびのかみ)
第四殿 生産日神(いくむすびのかみ)
第五殿 足産日神(たるむすびのかみ)
第六殿 大宮売神(おおみやのめのかみ)
第七殿 御食津神(みけつかみ)
第八殿 事代主神(ことしろぬしのかみ)
これら8柱は、鎮魂祭の対象になる神々で、天皇の魂を鎮める、天皇の健康や長寿を司る神々だと考えられている。『延喜式』神名帳の性格の一端がうかがえる。また、『延喜式』祝詞にも記載されている。
その筆頭が神産日神。『古事記』では三番目に生まれた神で、主に出雲神話で活躍する。しかし、この8柱に含まれていることから、出雲系の神ではないとする説もある。
二番目が高御産日神。『古事記』では二番目に生まれた神で、天照大神が最高神となる以前の、皇室が最高神として祭祀をしていた神だとされる場合がある。
三番目の玉積産日神は、『古事記』に登場せず、『古語拾遺』の「魂留産霊(たまとめ)」と同神とされ、魂を体に留める、いわば鎮魂そのものの意だという。
四番目と五番目の生産日神・足産日神は、やはり『古事記』に登場せず、「生き、息」というむすひの働きを称え、その働きが満ち溢れている様子を示すという。
六番目の大宮売神は、宮殿の人格化とも内侍(女官)の神格化ともいわれ、太玉命の子であり、上下の間を取り持つ神とされる。
七番目の御食津神は食事に関わる神。『延喜式神名帳』宮中大膳職坐神三座の一つに御食津神社がある。八番目の事代主神は「言葉」の神。
この8柱に現在は皇祖神として広く認知されている天照大神が入っていないのが大きな特徴。つまり、皇祖神である天照大神は、その子孫である現天皇の健康には関知していない、とも取れなくない。
『古語拾遺』によると、初代神武天皇の時に皇天二祖(天照大神・高皇産霊神)の詔のままに神籬を建て、高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神を奉斎したといい、これが起源だとされる。
そもそもが天照大神の命令で始まったものであるために、天照大神が含まれない、とは言えない。やはり命令者である高皇産霊神が、神武天皇の時は筆頭に掲げられている。
逆に、『延喜式』神名帳では高御産日神が降格、神産日神が昇格したことの方が問題か。
天皇の健康に関わる神であるため、天津神のはずだ、というのも、日本の信仰の本質から外れる。むしろ、後ろめたい(と自分が考える)神々を丁重に祀るこそがその根幹。
そうして考えると、神産日神が出雲系の神ではないという説も説得力がない。また、ここでの事代主神は、『古事記』にも描かれた出雲の神ではないとされるが、それもありえない。
事代主神は後世、出雲色が払しょくされた「言葉」の神として認知されたと考えられるが、その契機は明らかに『古事記』での事代主神の言動である。
つまり、事代主神は事代主神であって、それ以外の何物でもなく、出雲系・非出雲系などを論じることはあまり意味がない。第一、昔の人が神名を混同するようなことをするわけがない。
大宮売神は天宇受賣命と同一視される。天宇受賣命の系譜は不詳だが、天岩戸隠れや天孫降臨のことを考えれば、太玉命の子としてもおかしくはない。
神話において、極めて重要な役割を果たしているにも関わらず、少しぞんざいともとれる天宇受賣命に対する扱いを考えれば、例えば、太玉命の妾腹の子、というのはピッタリ。
上下の間を取り持つというのはまさに天宇受賣命で、天孫邇邇芸命(天津神、上位)と猿田毘古神(国津神、下位)を取り持ったのはまさしく彼女だ(『古事記』該当部分)。
そもそも宮殿や女官を神格化すれば、天皇の健康は守護できるのか。天皇の健康を司る重要な神が、単なる宮殿や女官の神格化であるはずがない。
鎮魂祭には、つまり八神殿の祭祀においては、猿女が重要な役割を担う。猿女の祖である天宇受賣命、そしてその契機となった猿田毘古神の件が、密接につながっていると考えなければならない(『古事記』該当部分)。
七番目の御食津神は、食事の神だから大事、というのは当たり前すぎる。御食津神は、大膳職坐神三座の一座に御食津神社があり、諸説あるが、一般的には宇迦之御魂神と同一視される。
また出雲系の神で、建速須佐之男命の娘。
宇迦之御魂神、天宇受賣命、猿田毘古神はまさに稲荷神。どちらがどちらに影響を与えたかは定かではないが、八神殿と稲荷神が全く無関係とは考えづらい。
ちなみに、大宮売神は京都市上京区主税町の大宮姫命稲荷神社で祀られている。また、京都府京丹後市大宮町の式内社である大宮売神社の御祭神でもある。
『延喜式』神名帳宮中の造酒司坐神六座の四座に大宮売神社がある。
ともかく、ここまで出雲系の神が多くを占めている中で、肝心要の大国主命が全く出てこないことも奇妙。
天照大神が含まれていないことも含め、この2柱は「あまりにも露骨すぎる」と考えられた結果だろうか。
出雲系が多くを占め、特に長男である事代主神を直接祭祀することで、大国主命とその出雲大社を象徴的に暗示させているのではないか。
同じように、大宮売神は宮比神ともされ、夫の猿田毘古神の別名とされる興玉神とともに、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)を、つまり天照大神を、ある意味では象徴する。
出雲は奈良時代には完全に服従してはいるものの、霊的には脅威だったのかもしれない。
大和朝廷・皇室の二つの大きなトラウマだと考えられる伊勢神宮と出雲大社も、このように八神殿に織り込むことで、初めて天皇の健康を守護できる、と考えられたのかもしれない(参考:サルタヒコ殺人事件)。
この八神殿も、南北朝時代までは古代の形が維持されたが、応仁の乱での焼失以後は宮中では再建されなかった。
江戸時代になり、吉田家が吉田神社境内に、白川家が邸内にそれぞれ八神殿を創建して、宮中の八神殿の代替とされた。
明治維新を経て神祇官が再興されるにあたり、明治2年(1869年)に神祇官の神殿が創建されて遷座祭が行われた。
その際、八神殿の8神だけでなく、天神地祇と歴代の天皇の霊も祀られた。それまで歴代の天皇の霊は黒戸で仏式で祀られていたが、これに伴い黒戸は廃止された。
明治5年(1872年)9月に神祇官は宣教のみを行うこととなり、八神殿は神祇官から宮中へ遷座、歴代天皇の霊は宮中の皇霊殿へ移された。
明治5年(1872年)10月に八神殿の8神を天神地祇に合祀し、「八神殿」の名称を廃して「神殿」に改称。この神殿が現在も皇居の宮中三殿の一つとして継続している。
【ご利益】
天皇陛下の健康と長寿の祈願
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『延喜式神名帳』神祇官西院23座の同心円構造
・天皇の身体 御巫等祭神八座
・宮殿の敷地 座摩巫祭神五座
・門の守護神 御門巫祭神八座
・国土の神霊 生嶋巫祭神二座
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御巫等祭神八座(みかんなぎなどさいじんはちざ)は、『延喜式』巻9・10神名帳 宮中京中 宮中坐神 神祇官西院坐御巫等祭神(大社、月次新嘗)にある8柱の神々の総称である。
御巫祭神八座とも、「みかんなぎのまつるかみはちざ」とも。宮中の八つの神殿に祀られていたため、平安時代以降は八神殿(はっしんでん)という名称が広く普及、定着した。
『延喜式』神名帳宮中の神祇官西院坐御巫等祭神23座、さらに『延喜式』神名帳全体としても、その筆頭に掲げられた神々。式内社の中でも最上の格式があると考えられる。
第一殿 神産日神(かみむすびのかみ)
第二殿 高御産日神(たかみむすびのかみ)
第三殿 玉積産日神(たまつめむすびのかみ)
第四殿 生産日神(いくむすびのかみ)
第五殿 足産日神(たるむすびのかみ)
第六殿 大宮売神(おおみやのめのかみ)
第七殿 御食津神(みけつかみ)
第八殿 事代主神(ことしろぬしのかみ)
これら8柱は、鎮魂祭の対象になる神々で、天皇の魂を鎮める、天皇の健康や長寿を司る神々だと考えられている。『延喜式』神名帳の性格の一端がうかがえる。また、『延喜式』祝詞にも記載されている。
その筆頭が神産日神。『古事記』では三番目に生まれた神で、主に出雲神話で活躍する。しかし、この8柱に含まれていることから、出雲系の神ではないとする説もある。
二番目が高御産日神。『古事記』では二番目に生まれた神で、天照大神が最高神となる以前の、皇室が最高神として祭祀をしていた神だとされる場合がある。
三番目の玉積産日神は、『古事記』に登場せず、『古語拾遺』の「魂留産霊(たまとめ)」と同神とされ、魂を体に留める、いわば鎮魂そのものの意だという。
四番目と五番目の生産日神・足産日神は、やはり『古事記』に登場せず、「生き、息」というむすひの働きを称え、その働きが満ち溢れている様子を示すという。
六番目の大宮売神は、宮殿の人格化とも内侍(女官)の神格化ともいわれ、太玉命の子であり、上下の間を取り持つ神とされる。
七番目の御食津神は食事に関わる神。『延喜式神名帳』宮中大膳職坐神三座の一つに御食津神社がある。八番目の事代主神は「言葉」の神。
この8柱に現在は皇祖神として広く認知されている天照大神が入っていないのが大きな特徴。つまり、皇祖神である天照大神は、その子孫である現天皇の健康には関知していない、とも取れなくない。
『古語拾遺』によると、初代神武天皇の時に皇天二祖(天照大神・高皇産霊神)の詔のままに神籬を建て、高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神を奉斎したといい、これが起源だとされる。
そもそもが天照大神の命令で始まったものであるために、天照大神が含まれない、とは言えない。やはり命令者である高皇産霊神が、神武天皇の時は筆頭に掲げられている。
逆に、『延喜式』神名帳では高御産日神が降格、神産日神が昇格したことの方が問題か。
天皇の健康に関わる神であるため、天津神のはずだ、というのも、日本の信仰の本質から外れる。むしろ、後ろめたい(と自分が考える)神々を丁重に祀るこそがその根幹。
そうして考えると、神産日神が出雲系の神ではないという説も説得力がない。また、ここでの事代主神は、『古事記』にも描かれた出雲の神ではないとされるが、それもありえない。
事代主神は後世、出雲色が払しょくされた「言葉」の神として認知されたと考えられるが、その契機は明らかに『古事記』での事代主神の言動である。
つまり、事代主神は事代主神であって、それ以外の何物でもなく、出雲系・非出雲系などを論じることはあまり意味がない。第一、昔の人が神名を混同するようなことをするわけがない。
大宮売神は天宇受賣命と同一視される。天宇受賣命の系譜は不詳だが、天岩戸隠れや天孫降臨のことを考えれば、太玉命の子としてもおかしくはない。
神話において、極めて重要な役割を果たしているにも関わらず、少しぞんざいともとれる天宇受賣命に対する扱いを考えれば、例えば、太玉命の妾腹の子、というのはピッタリ。
上下の間を取り持つというのはまさに天宇受賣命で、天孫邇邇芸命(天津神、上位)と猿田毘古神(国津神、下位)を取り持ったのはまさしく彼女だ(『古事記』該当部分)。
そもそも宮殿や女官を神格化すれば、天皇の健康は守護できるのか。天皇の健康を司る重要な神が、単なる宮殿や女官の神格化であるはずがない。
鎮魂祭には、つまり八神殿の祭祀においては、猿女が重要な役割を担う。猿女の祖である天宇受賣命、そしてその契機となった猿田毘古神の件が、密接につながっていると考えなければならない(『古事記』該当部分)。
七番目の御食津神は、食事の神だから大事、というのは当たり前すぎる。御食津神は、大膳職坐神三座の一座に御食津神社があり、諸説あるが、一般的には宇迦之御魂神と同一視される。
また出雲系の神で、建速須佐之男命の娘。
宇迦之御魂神、天宇受賣命、猿田毘古神はまさに稲荷神。どちらがどちらに影響を与えたかは定かではないが、八神殿と稲荷神が全く無関係とは考えづらい。
ちなみに、大宮売神は京都市上京区主税町の大宮姫命稲荷神社で祀られている。また、京都府京丹後市大宮町の式内社である大宮売神社の御祭神でもある。
『延喜式』神名帳宮中の造酒司坐神六座の四座に大宮売神社がある。
ともかく、ここまで出雲系の神が多くを占めている中で、肝心要の大国主命が全く出てこないことも奇妙。
天照大神が含まれていないことも含め、この2柱は「あまりにも露骨すぎる」と考えられた結果だろうか。
出雲系が多くを占め、特に長男である事代主神を直接祭祀することで、大国主命とその出雲大社を象徴的に暗示させているのではないか。
同じように、大宮売神は宮比神ともされ、夫の猿田毘古神の別名とされる興玉神とともに、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)を、つまり天照大神を、ある意味では象徴する。
出雲は奈良時代には完全に服従してはいるものの、霊的には脅威だったのかもしれない。
大和朝廷・皇室の二つの大きなトラウマだと考えられる伊勢神宮と出雲大社も、このように八神殿に織り込むことで、初めて天皇の健康を守護できる、と考えられたのかもしれない(参考:サルタヒコ殺人事件)。
この八神殿も、南北朝時代までは古代の形が維持されたが、応仁の乱での焼失以後は宮中では再建されなかった。
江戸時代になり、吉田家が吉田神社境内に、白川家が邸内にそれぞれ八神殿を創建して、宮中の八神殿の代替とされた。
明治維新を経て神祇官が再興されるにあたり、明治2年(1869年)に神祇官の神殿が創建されて遷座祭が行われた。
その際、八神殿の8神だけでなく、天神地祇と歴代の天皇の霊も祀られた。それまで歴代の天皇の霊は黒戸で仏式で祀られていたが、これに伴い黒戸は廃止された。
明治5年(1872年)9月に神祇官は宣教のみを行うこととなり、八神殿は神祇官から宮中へ遷座、歴代天皇の霊は宮中の皇霊殿へ移された。
明治5年(1872年)10月に八神殿の8神を天神地祇に合祀し、「八神殿」の名称を廃して「神殿」に改称。この神殿が現在も皇居の宮中三殿の一つとして継続している。
【ご利益】
天皇陛下の健康と長寿の祈願
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『延喜式神名帳』神祇官西院23座の同心円構造
・天皇の身体 御巫等祭神八座
・宮殿の敷地 座摩巫祭神五座
・門の守護神 御門巫祭神八座
・国土の神霊 生嶋巫祭神二座
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