平式部館跡や径6メートルの円墳、江戸期には住吉大明神を称す
[住所]石川県羽咋郡志賀町町28-3乙
[電話]0767-32-0123 - 神代神社
八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は、石川県羽咋郡志賀町町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大穴持像石神社(能登国・羽咋郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
能登半島の西岸、日本海が望める。もとの町村で、「町」は地名。創祀年代は不詳。主祭神は大穴牟遲命。社伝によると、大穴持像石神社と称した時期があるという。
中古、山崩れのため、その神宝である石が埋没したが、当時の町の城主・平式部の夢のお告げによって、掘り出され、以後、産土大神として崇敬された。
この時期は不明だが、町には平式部館跡が残る。平家滅亡後に当地に逃げた平家一族がこの地に土着したと考えられ、戦国時代に上杉謙信の侵攻で滅亡した。
式内社「大穴持像石神社」の論社は他に、寺家の大穴持像石神社、梨谷小山の大穴持美代神社、穴口の天神神社がある。
天神神社を除く三社の間で式内論争が繰り広げられたが、論拠に乏しいとされ、未決に終わった経緯がある。
『特選神名牒』によれば、当社と梨谷小山の大穴持美代神社についての論争で、江戸時代中期の寛延2年(1749年)社号帳に当社は住吉大明神、梨谷小山は三代大明神。
また、宝暦10年(1759年)になると、当社は大穴持社と称し、天明年間(1781年-1789年)後に八千鉾社となり、そして梨谷小山は大穴持身代社を称したという。
当社は、住吉大明神、大穴持社、八千鉾社と社名が変遷していることが分かる。住吉は、当社の合祀神である、表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神を指すのだろう。
また、他に、志那津毘古命・志那都比米神を合祀している。なお、境内は径6メートルの円墳で、横穴式石室で天井石が露出した町八千鉾神社古墳である。
明治初期に、現社号に改称した。現在はやはり式内社である神代神社の兼務神社である。
【ご利益】
厄災除け、縁結び、水難除け、海上安全
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[電話]0767-32-0123 - 神代神社
八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は、石川県羽咋郡志賀町町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大穴持像石神社(能登国・羽咋郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
能登半島の西岸、日本海が望める。もとの町村で、「町」は地名。創祀年代は不詳。主祭神は大穴牟遲命。社伝によると、大穴持像石神社と称した時期があるという。
中古、山崩れのため、その神宝である石が埋没したが、当時の町の城主・平式部の夢のお告げによって、掘り出され、以後、産土大神として崇敬された。
この時期は不明だが、町には平式部館跡が残る。平家滅亡後に当地に逃げた平家一族がこの地に土着したと考えられ、戦国時代に上杉謙信の侵攻で滅亡した。
式内社「大穴持像石神社」の論社は他に、寺家の大穴持像石神社、梨谷小山の大穴持美代神社、穴口の天神神社がある。
天神神社を除く三社の間で式内論争が繰り広げられたが、論拠に乏しいとされ、未決に終わった経緯がある。
『特選神名牒』によれば、当社と梨谷小山の大穴持美代神社についての論争で、江戸時代中期の寛延2年(1749年)社号帳に当社は住吉大明神、梨谷小山は三代大明神。
また、宝暦10年(1759年)になると、当社は大穴持社と称し、天明年間(1781年-1789年)後に八千鉾社となり、そして梨谷小山は大穴持身代社を称したという。
当社は、住吉大明神、大穴持社、八千鉾社と社名が変遷していることが分かる。住吉は、当社の合祀神である、表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神を指すのだろう。
また、他に、志那津毘古命・志那都比米神を合祀している。なお、境内は径6メートルの円墳で、横穴式石室で天井石が露出した町八千鉾神社古墳である。
明治初期に、現社号に改称した。現在はやはり式内社である神代神社の兼務神社である。
【ご利益】
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