氣多大社の境外摂社の式内社、明治には県社に、境内に地震石
[住所]石川県羽咋市寺家町ケ1
[電話]0767-22-0817 - 羽咋神社
大穴持像石神社(おおなもちかたいしじんじゃ)は、石川県羽咋市寺家町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大穴持像石神社(能登国・羽咋郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。
創祀は不詳。由緒も不詳だが、神社名から考えて、大穴持神の神像石を奉祀したのに始まると考えられている。
現在も境内には地震石と呼ばれる霊石があり、この石が御神体石ではないか、との説がある。この地震石が存在することにより、古来、当地には地震がないと伝えられている。
貞観2年(860年)、宿那彦神像石神社とともに官社に列した。宿那彦神像石神社の論社は、中能登町金丸と七尾市黒崎町にある。
ちなみに、式内社「大穴持像石神社」の論社については、他にいずれも志賀町で、梨谷小山の大穴持美代神社、町の八千鉾神社、穴口の天神神社がある。
古来より、氣多大社との関係が深く、氣多大社の境外摂社として、その管理下にあったという。御祭神は、大穴持神・少彦名命。例祭は4月18日で、春季例祭。
享保14年(1729年)、加賀藩第5代藩主前田吉徳が再興した。江戸時代は大穴持宮・大穴持社と称していた。
明治になり、村社に列し、明治6年(1873年)には頂神社に改称。明治10年(1877年)3月、氣多大社の摂社に指定され、現社号に復称した。
明治16年(1883年)5月には県社に昇格し、明治41年(1908年)4月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
石川県神社庁によれば、現在も氣多大社の境外摂社ではあるが、当社の管理は羽咋神社が行っているという。
【ご利益】
地震・災害除け、地域安全、病気平癒

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・石川県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
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[電話]0767-22-0817 - 羽咋神社
大穴持像石神社(おおなもちかたいしじんじゃ)は、石川県羽咋市寺家町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大穴持像石神社(能登国・羽咋郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。
創祀は不詳。由緒も不詳だが、神社名から考えて、大穴持神の神像石を奉祀したのに始まると考えられている。
現在も境内には地震石と呼ばれる霊石があり、この石が御神体石ではないか、との説がある。この地震石が存在することにより、古来、当地には地震がないと伝えられている。
貞観2年(860年)、宿那彦神像石神社とともに官社に列した。宿那彦神像石神社の論社は、中能登町金丸と七尾市黒崎町にある。
ちなみに、式内社「大穴持像石神社」の論社については、他にいずれも志賀町で、梨谷小山の大穴持美代神社、町の八千鉾神社、穴口の天神神社がある。
古来より、氣多大社との関係が深く、氣多大社の境外摂社として、その管理下にあったという。御祭神は、大穴持神・少彦名命。例祭は4月18日で、春季例祭。
享保14年(1729年)、加賀藩第5代藩主前田吉徳が再興した。江戸時代は大穴持宮・大穴持社と称していた。
明治になり、村社に列し、明治6年(1873年)には頂神社に改称。明治10年(1877年)3月、氣多大社の摂社に指定され、現社号に復称した。
明治16年(1883年)5月には県社に昇格し、明治41年(1908年)4月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
石川県神社庁によれば、現在も氣多大社の境外摂社ではあるが、当社の管理は羽咋神社が行っているという。
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