「藤原秀郷の臣」「豊臣方の武将」が江戸中期に勧請・創建
[住所]千葉県習志野市大久保4-5-19
[電話]047-472-7218

誉田八幡神社(ほんだはちまんじんじゃ)は、千葉県習志野市大久保にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

江戸時代初期の延宝年間(1673年-1680年)、市角頼母が、河内国古市郡誉田村に鎮座する誉田八幡宮の御分霊を、船橋市夏見に守護神として奉斎したのが始まり。

御祭神は誉田別命。なお、市角頼母は「藤原秀郷の臣」とされる場合があるが、平将門と戦った平安時代の武将の臣のはずはないので誤り。

また、「豊臣方の武将」ともされるが、延宝年間といえば、豊臣家滅亡から60年程度は過ぎており、滅亡時15歳で、延宝年間には70歳を超える老人、ということになる。

つじつまが全く合わない、というわけではないにせよ、後述するように豊臣家滅亡から100年ほどとなる年にも、頼母は生きている由緒を当社は伝える。

藤原秀郷の裔で、豊臣方ゆかりのもと武将の家系、というところが正解だろうか。

さて、一族郎党移住して開拓を始めた当初地の夏見は、当時、農耕に適さなかったようで、藤崎部落の田久保源左衛門の教えにより、習志野市本大久保の地に奉遷した。

その後さらに現在地に遷座したという。頼母は、正徳5年(1715年)に二宮神社の神輿・神鏡を奉納し、村内には自分の持仏堂として薬師堂(現 薬師寺)を建立した。

現在、頼母は、大久保新田の開祖とも言われている。

江戸時代後期から幕末にかけて、御祭神にちなむとされるが、おそらくは勧請元にちなんで、現社号に改称した。

安政2年(1856年)に本殿・拝殿を改築し、昭和7年(1932年)に神輿殿、昭和24年(1949年)に神楽殿を新築した。

神主は市角氏の世襲で、文政10年(1827年)と明治2年(1869年)の神道裁許状が伝わっている。

資料によれば、現在は、神功皇后と、その子である仲哀天皇の第四皇子を祀るとされる。『古事記』に記載のある品夜和気命か。

『日本書紀』だと、品夜和気命(誉屋別皇子)は仲哀天皇の第四皇子で、弟媛との間の子。『古事記』だと、応神天皇の同母兄であり、仲哀天皇の第一皇子ということになる。

毎年9月の例祭は神輿渡御などもあり、盛大に開催される。1月にはどんど焼きがあり、2月には節分会がある。

なお、境内末社は7社で、天満宮・三峯神社・春日神社・蔵王神社・稲荷神社・金比羅神社・疱瘡神社。

【ご利益】
五穀豊穣、地域安全、厄災除け、安産
誉田八幡神社 千葉県習志野市大久保
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