奈良時代に皇孫が祖を祀る、鬼怒川沿いに鎮座、江戸期に式内認定
[住所]茨城県常総市国生1186
[電話]-
桑原神社(くわはらじんじゃ)は、茨城県常総市国生にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 下総国 岡田郡「桑原神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社伝によれば、下総の国司となった桑原王が、奈良時代の宝亀3年(772年)、現在地の東、鬼怒川右岸(西岸)の本屋敷と呼ばれた場所に、祖である豊城入彦命を祀ったのが創始。
現在は、後の合祀も含め、天熊人・稚彦命・大山咋命も祀られている。また、明治の合祀を考えれば、猿田彦命を合祀している可能性もある。
桑原王は、天智天皇の第七皇子であった志貴皇子の孫。志貴王子は、壬申の乱によって天武天皇系に皇統が移ったことによって、天皇になれなかった。
しかし志貴皇子の六男の白壁王が光仁天皇に即位したことから、「春日宮御宇天皇」の追尊を受けた。志貴王子は奈良県奈良市奈良阪町の奈良豆比古神社で祀られている。
桑原王も皇孫とされ、二世王待遇となった。『続日本紀』によれば、神護景雲3年(769年)に下総員外介、宝亀元年(770年)に下総守、宝亀2年(771年)に上総守に任命されている。
そうなると、当社創建の宝亀3年時点で、桑原王は上総守だったことになり、わずか数年だがつじつまが合わないことになり、創建の由来について疑問視する声もあるという。
わずか数年、下総守から上総守で、場所的にも隣接していることから考えて、そこまで厳密に考える必要があるとは思えず、創建由来は比較的正確なのではないだろうか。
鬼怒川右岸のこの台地上には、かつて「東山塚」という高さ10メートルの前方後円墳があったが、鬼怒川の堤防工事のための土採りで消失してしまったという。
古墳時代から大きな集落があり、拓けていたことが考えられる。
平安時代の延喜年間(902年-921年)には平良将・将門父子が当地を本拠地とし、当社は国土開発・農業発展の守護神として崇敬を受けた。
その後、鬼怒川の水害などもあり、集落が次第に西に移ったのに合わせ、江戸時代前期の延宝6年(1678年)、当社も現在地に遷座したという。
別当は不動院。江戸時代には「香取神社」と称されていたが、享保4年(1719年)に本殿を建て替えた際、寛永2年(1625年)の棟札が発見された。
その棟札に、「日本国関東下総国生桑原大明神造立一宇」という記載があったことから、公儀に届けた。
宝暦8年(1758年)になって、当時の寺社奉行阿部伊予守から呼び出しがあり、当社が式内社「桑原神社」であることを証明する書状が名主に下付されたという。
明治になり、明治6年(1873年)、郷社に列し、明治42年(1909年)2月、日枝神社と佐田彦神社を合祀した。
社殿右手に石祠の大杉社、四つの石祠の四社宮があり、左手には石碑と青面金剛の庚申社、さらに石祠の稲荷、日枝、天神、八坂、八幡、愛宕、その他が並んでいる。
なお、当社の近く、西側に、明治から大正にかけての歌人・小説家である長塚節(ながつかたかし)の生家があり、銅像なども立っている。
【ご利益】
安産・難産除け、地域安全、家内安全、交通安全

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桑原神社(くわはらじんじゃ)は、茨城県常総市国生にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 下総国 岡田郡「桑原神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
社伝によれば、下総の国司となった桑原王が、奈良時代の宝亀3年(772年)、現在地の東、鬼怒川右岸(西岸)の本屋敷と呼ばれた場所に、祖である豊城入彦命を祀ったのが創始。
現在は、後の合祀も含め、天熊人・稚彦命・大山咋命も祀られている。また、明治の合祀を考えれば、猿田彦命を合祀している可能性もある。
桑原王は、天智天皇の第七皇子であった志貴皇子の孫。志貴王子は、壬申の乱によって天武天皇系に皇統が移ったことによって、天皇になれなかった。
しかし志貴皇子の六男の白壁王が光仁天皇に即位したことから、「春日宮御宇天皇」の追尊を受けた。志貴王子は奈良県奈良市奈良阪町の奈良豆比古神社で祀られている。
桑原王も皇孫とされ、二世王待遇となった。『続日本紀』によれば、神護景雲3年(769年)に下総員外介、宝亀元年(770年)に下総守、宝亀2年(771年)に上総守に任命されている。
そうなると、当社創建の宝亀3年時点で、桑原王は上総守だったことになり、わずか数年だがつじつまが合わないことになり、創建の由来について疑問視する声もあるという。
わずか数年、下総守から上総守で、場所的にも隣接していることから考えて、そこまで厳密に考える必要があるとは思えず、創建由来は比較的正確なのではないだろうか。
鬼怒川右岸のこの台地上には、かつて「東山塚」という高さ10メートルの前方後円墳があったが、鬼怒川の堤防工事のための土採りで消失してしまったという。
古墳時代から大きな集落があり、拓けていたことが考えられる。
平安時代の延喜年間(902年-921年)には平良将・将門父子が当地を本拠地とし、当社は国土開発・農業発展の守護神として崇敬を受けた。
その後、鬼怒川の水害などもあり、集落が次第に西に移ったのに合わせ、江戸時代前期の延宝6年(1678年)、当社も現在地に遷座したという。
別当は不動院。江戸時代には「香取神社」と称されていたが、享保4年(1719年)に本殿を建て替えた際、寛永2年(1625年)の棟札が発見された。
その棟札に、「日本国関東下総国生桑原大明神造立一宇」という記載があったことから、公儀に届けた。
宝暦8年(1758年)になって、当時の寺社奉行阿部伊予守から呼び出しがあり、当社が式内社「桑原神社」であることを証明する書状が名主に下付されたという。
明治になり、明治6年(1873年)、郷社に列し、明治42年(1909年)2月、日枝神社と佐田彦神社を合祀した。
社殿右手に石祠の大杉社、四つの石祠の四社宮があり、左手には石碑と青面金剛の庚申社、さらに石祠の稲荷、日枝、天神、八坂、八幡、愛宕、その他が並んでいる。
なお、当社の近く、西側に、明治から大正にかけての歌人・小説家である長塚節(ながつかたかし)の生家があり、銅像なども立っている。
【ご利益】
安産・難産除け、地域安全、家内安全、交通安全

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