「我、蘇(よみがえ)り」と蘇我伝承、春日大明神と呼ばれた式内
[住所]千葉県千葉市中央区蘇我2-2-7
[電話]043-261-3450
蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は、千葉県千葉市中央区蘇我にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 下総国 千葉郡「蘇賀比咩神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
第12代景行天皇の皇子である日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとした時、暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。
社伝によれば、その時弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。
後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。
第15代応神天皇は、その行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日神と比咩神を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。
ただし、別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。
主祭神は、蘇我比咩大神・千代春稲荷大神。天照皇大神、経津主神・武甕槌神・天児屋根神・天児屋根比売神(春日大明神)、応神天皇を祀る。
通例とは違うところとして、当社では春日神の天児屋根神夫妻を「武の神」としているところ。経津主神・武甕槌神は「建国の神」。
別当は千葉寺。江戸時代初期の天正19年(1613年)、徳川家康が社領10石を寄進した。江戸時代には春日大明神と称された。
当地は、江戸と、上総・香取への街道の要所にもあたり、参勤する大名や、人々の集まる宿場町であったため、当社への参詣者で賑わったという。
江戸時代後期の文化年間(1804年-1818年)、火災に罹り、社殿や神器及び別当寺院が焼失。
明治5年(1872年)に郷社に列し、皇族の尊崇を受け、御手植の松もあったが、明治の大火事で社殿も社宝、古文書、御手植の松すべて焼災。
明治39年(1906年)12月に幣饌料供進社に指定された。例祭は10月9日。神輿渡御などが行われる。
通称イボ神様と呼ばれる御霊の大神も合祀されている。手足にできたイボを取り払うのに、この大神の御石でなぜると取ることができると言い伝えられている。
境内社に、大三輪神社、大山阿夫利神社、三峯神社、招魂社がある。
また、境内には甘酒のんのん・甘酒どんどんと呼ばれる龍姫の祠がある。言い伝えによると、ある戦いで敗れた一族が、女・子供をつれて当地に逃げてきた。
当地はまだ葦の葉が茂るところであったため、ここに一族が陰れた。追手がせまって来た時、乳飲み子が咳をしてしまい追手に見つかり、一族皆殺しにされた。
これを見ていた里人が可哀相に思い、祠を建てたという。後に、子供の病が治らない時、この祠に甘酒をお供えし祈ると治るとされるようになった。
なお、神紋は五七桐で、これは東京湾奥に鎮座する、いずれも式内社の姉埼神社、飽富神社とも共通している。
【ご利益】
水難除け、五穀豊穣、健康長寿、病魔退散など
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・千葉県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、千葉県に鎮座している神社の一覧
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蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は、千葉県千葉市中央区蘇我にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 下総国 千葉郡「蘇賀比咩神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
第12代景行天皇の皇子である日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとした時、暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。
社伝によれば、その時弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。
後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。
第15代応神天皇は、その行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日神と比咩神を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。
ただし、別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。
主祭神は、蘇我比咩大神・千代春稲荷大神。天照皇大神、経津主神・武甕槌神・天児屋根神・天児屋根比売神(春日大明神)、応神天皇を祀る。
通例とは違うところとして、当社では春日神の天児屋根神夫妻を「武の神」としているところ。経津主神・武甕槌神は「建国の神」。
別当は千葉寺。江戸時代初期の天正19年(1613年)、徳川家康が社領10石を寄進した。江戸時代には春日大明神と称された。
当地は、江戸と、上総・香取への街道の要所にもあたり、参勤する大名や、人々の集まる宿場町であったため、当社への参詣者で賑わったという。
江戸時代後期の文化年間(1804年-1818年)、火災に罹り、社殿や神器及び別当寺院が焼失。
明治5年(1872年)に郷社に列し、皇族の尊崇を受け、御手植の松もあったが、明治の大火事で社殿も社宝、古文書、御手植の松すべて焼災。
明治39年(1906年)12月に幣饌料供進社に指定された。例祭は10月9日。神輿渡御などが行われる。
通称イボ神様と呼ばれる御霊の大神も合祀されている。手足にできたイボを取り払うのに、この大神の御石でなぜると取ることができると言い伝えられている。
境内社に、大三輪神社、大山阿夫利神社、三峯神社、招魂社がある。
また、境内には甘酒のんのん・甘酒どんどんと呼ばれる龍姫の祠がある。言い伝えによると、ある戦いで敗れた一族が、女・子供をつれて当地に逃げてきた。
当地はまだ葦の葉が茂るところであったため、ここに一族が陰れた。追手がせまって来た時、乳飲み子が咳をしてしまい追手に見つかり、一族皆殺しにされた。
これを見ていた里人が可哀相に思い、祠を建てたという。後に、子供の病が治らない時、この祠に甘酒をお供えし祈ると治るとされるようになった。
なお、神紋は五七桐で、これは東京湾奥に鎮座する、いずれも式内社の姉埼神社、飽富神社とも共通している。
【ご利益】
水難除け、五穀豊穣、健康長寿、病魔退散など
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