愛媛の石上、往時は62回の勅願・壮麗な社殿、謎を呼ぶ秘密祭神
[住所]愛媛県西条市石延119
[電話]0898-66-3272
布都神社(ふつじんじゃ)は、愛媛県西条市石延にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 桑村郡「布都神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
主祭神は布都主神。武甕槌神・天照皇大神・武布都蛇麁正剱・倭武命・高倉下神・神倭磐余彦神と、秘密祭神1柱を配祀する。
武布都蛇麁正剱が御神体とも。佐士布都神のことか。創建年代は不詳。もとは現在地の西北約500メートルの泉堀(池)の付近に鎮座したという。
石延字古屋敷の宮田と呼ばれる田に石塔があり、当社の旧地と伝えられる。
社記によれば、文武天皇から光孝天皇までの10代の天皇の間(697年-886年)に62回の勅願があったという。
平安時代の仁寿元年(851年)正月に正六位上に進み、天安2年(858年)9月22日には従五位下に叙された。
貞観元年(859年)に勅宣により神殿が再造された。四丁四方の境内に、美麗を極めた社殿があったと伝えられている。
今でも付近には「神田」「大門」の地名が残り、往時の繁栄ぶりがうかがえる。
中世には、当地は津宮郷と呼ばれたが、これは当社にちなむ布都宮の略とされる。石上里とも称され、大和国石上神宮との関わりが指摘されている。
しかし、南北朝時代の康永元年(1342年)、細川頼春の伊予侵入で焼失。戦国時代の慶長初年(1596年ごろ)に小祠が再建された。
江戸時代中期の享保2年(1717年)12月に現在地に遷座し、社殿が造営された。石上布都大明神・布都神宮・布都明神・石上里大神などと称された。
例祭は4月20日。
秘密祭神については諸説ある。その一つ、鎌倉時代初期、伊予守護職だった佐々木盛綱の家人に、斎藤実盛の孫で景忠という武将がいた。
景忠は盛綱の代官として伊予の道前地方の守護職を務め、武蔵国で名を馳せた祖父の遺徳を偲び、供養塔を建てた。これが石延の実盛塚である。
景忠は、祖父実盛を神として、当社に合祀して奉斎したという。しかし、平家方の有力武将である祖父を御祭神として公にすることが憚れる時代だった。
したがって秘密の神として祀り、世人にはこの御神体を明かせば天罰が当たるとして後々の世まで伝えさせたという。
しかしこれは、鎌倉時代の話であり、創建当初から秘密祭神が存在していた、とすると、新しすぎる。
異説には、素盞嗚尊である、というもの。当社の東500メートルにある佐々久山(佐々久神社)が「龍蛇」のようだとされ、龍蛇退治をした霊剣に関係するというもの。
ただ、これも、なぜそれが秘さなければならないかについては先の鎌倉説の方が説得力があり、そもそもすでに剣は武布都蛇麁正剱として祀られているという点とも矛盾するか。
【ご利益】
諸願成就、武運長久・勝運、開運招福

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布都神社(ふつじんじゃ)は、愛媛県西条市石延にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 桑村郡「布都神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
主祭神は布都主神。武甕槌神・天照皇大神・武布都蛇麁正剱・倭武命・高倉下神・神倭磐余彦神と、秘密祭神1柱を配祀する。
武布都蛇麁正剱が御神体とも。佐士布都神のことか。創建年代は不詳。もとは現在地の西北約500メートルの泉堀(池)の付近に鎮座したという。
石延字古屋敷の宮田と呼ばれる田に石塔があり、当社の旧地と伝えられる。
社記によれば、文武天皇から光孝天皇までの10代の天皇の間(697年-886年)に62回の勅願があったという。
平安時代の仁寿元年(851年)正月に正六位上に進み、天安2年(858年)9月22日には従五位下に叙された。
貞観元年(859年)に勅宣により神殿が再造された。四丁四方の境内に、美麗を極めた社殿があったと伝えられている。
今でも付近には「神田」「大門」の地名が残り、往時の繁栄ぶりがうかがえる。
中世には、当地は津宮郷と呼ばれたが、これは当社にちなむ布都宮の略とされる。石上里とも称され、大和国石上神宮との関わりが指摘されている。
しかし、南北朝時代の康永元年(1342年)、細川頼春の伊予侵入で焼失。戦国時代の慶長初年(1596年ごろ)に小祠が再建された。
江戸時代中期の享保2年(1717年)12月に現在地に遷座し、社殿が造営された。石上布都大明神・布都神宮・布都明神・石上里大神などと称された。
例祭は4月20日。
秘密祭神については諸説ある。その一つ、鎌倉時代初期、伊予守護職だった佐々木盛綱の家人に、斎藤実盛の孫で景忠という武将がいた。
景忠は盛綱の代官として伊予の道前地方の守護職を務め、武蔵国で名を馳せた祖父の遺徳を偲び、供養塔を建てた。これが石延の実盛塚である。
景忠は、祖父実盛を神として、当社に合祀して奉斎したという。しかし、平家方の有力武将である祖父を御祭神として公にすることが憚れる時代だった。
したがって秘密の神として祀り、世人にはこの御神体を明かせば天罰が当たるとして後々の世まで伝えさせたという。
しかしこれは、鎌倉時代の話であり、創建当初から秘密祭神が存在していた、とすると、新しすぎる。
異説には、素盞嗚尊である、というもの。当社の東500メートルにある佐々久山(佐々久神社)が「龍蛇」のようだとされ、龍蛇退治をした霊剣に関係するというもの。
ただ、これも、なぜそれが秘さなければならないかについては先の鎌倉説の方が説得力があり、そもそもすでに剣は武布都蛇麁正剱として祀られているという点とも矛盾するか。
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