独自の安産・産婆・乳母の祖神を祀る「全国唯一社」、皇室も安産祈願
[住所]愛媛県伊予郡松前町徳丸387
[電話]089-984-8212

高忍日賣神社(たかおしひめじんじゃ)は、愛媛県伊予郡松前町徳丸にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 伊予郡「高忍日売神社」に比定される式内社(小社)。

主祭神は高忍日賣大神、天忍男命・天忍女命・天忍人命を配祀する。記紀に記載はなく、当社には固有の神話がいくつか残る。

初代神武天皇の父・日子波限建鵜葺草葺不合命が生まれる際の伝承である。『古事記』とはだいぶ違う

日子穂穂手見命豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡る際に、妻神が急に産気づき近くの海岸で産屋を建てて、出産することになった。

そこで、鵜茅(うがや)で産屋を葺いてその中で出産するが、海から多くの蟹がはい上がり、産屋まで入り込み、大変な難産になった。

豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と一心に唱えると、高忍日賣大神が顕現し、天忍日女命と天忍人命と天忍男命を遣わされた。

天忍人命と天忍男命には箒を作って蟹を掃き飛し、天忍日女命には産屋に入って産婆の役目をした。

これにより始めは難産だったが安産となり、産屋が葺きあがらないうちに無事男児を産むことができた。

当社の御祭神は産婆・乳母の祖神、また、箒の神として多くの人々から崇敬された。現在も、皇室でお産がある場合、当社に安産祈願がお願いされる。

創祀年代は不詳。『伊予国風土記逸文』には聖徳太子が道後行啓の折に伊予郡を巡ったとあり、当社に参詣して神号扁額を奉納したという。

奈良時代には、当社が開発領主となって付近一帯を開墾して神社の前を三千坊、後ろを千坊と称して境内八町余に及び、広大な神域を形成していた。

また、神職の中には国府の役人を兼ねる者がおり、中央とも盛んに交流がなされ、伊予郡の文化的拠点ともなった。

平安時代には、『延喜式神名帳』の他、『伊予国神名帳』にも記載され、正三位の神階奉授があり、「高押穂明神」とも称された。

鎌倉時代には、「高忍日賣若宮八幡宮」と称して武家の信仰を集め、特に源頼朝から幕府繁栄・安産の加護のため、神領76町が寄進された。

また、当社の北東(鬼門)と南西(裏鬼門)にある夷子社では月3回の市が開かれ、三斎市と称して多くの人々で賑わった。

社家は大神主・大宮司を中心に武士団を形成して幕府御家人として活動し、南北朝時代には、南朝方に属し、後村上天皇から勅使左少弁が遣わされた。

豪族河野通景から神領や武具などの寄進があった。室町時代には、夷子社で開かれていた市も月6回、六斎市となって繁栄した。

戦国時代に入り、戦国大名の富国強兵策により、神領を徐々に失い、商工業者は城下町に集められ、市は急速に衰退。

江戸時代には、加藤嘉明をはじめ蒲生忠知、久松家歴代松山藩主の崇敬篤く、藩の祈祷所・松山藩鎮護の社・伊予郡総鎮守・総氏神の社となった。

藩主などが伺候した藩主代官詰所が現存し、幕末まで「藩主御成の間」があった。

また、全国で唯一高忍日賣大神を祭祀する故をもって、正一位の神階と「全国唯一社」という称号とを朝廷から贈られた。

なお、嘉永3年(1850年)に上棟された松山城天守閣の丑木は、当社境内の北西隅にあって東温市からも見えたという大松が使用された。

また、境内の古井戸は旱魃にも涸れることがなく、この湧水を飲むと子宝に恵まれるとされ、女性に信仰され続けている。

例祭は10月13日-15日。3月8日には、母子と助産師の日として安産福運大祭が斎行される。1月15日にはどんど焼き神事がある。

御神木はオオクス。また本殿北側の社叢に2本のクスがあり、仲の良い夫婦のように互いに伸びた枝同士が一本の枝で結ばれた連理の枝がある。

境内社に、「うぶすな様」と親しまれ、「円満石」と呼ばれる丸石を持ち帰ると願いが叶うといわれる産砂神社がある。

また、素鵞神社・若宮八幡宮・上市夷子神社・金刀比羅宮・徳丸天満宮・生目八幡宮・天照皇大神宮・奈良原神社・下市恵美寿神社などがある。

境外社に、建速須佐之男命櫛稲田姫命大国主神を祀る大字中川原と大字大間に二つある素鵞神社、大間素鵞神社境内に火防大明神社、奈良原神社、塞神社、後藤神社(後藤大明神)がある。

【ご利益】
安産、厄災除け、五穀豊穣、祈雨・祈晴(公式HP
高忍日賣神社 - 独自の安産・産婆・乳母の祖神を祀る「全国唯一社」、皇室も安産祈願
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