国津比古命神社の妃神、夫神より先に参拝する祓座大明神
櫛玉比売命神社(愛媛県松山市高田702)
[住所]愛媛県松山市高田702
[電話]089-992-1515

櫛玉比売命神社(くしだまのひめのみことじんじゃ)は、愛媛県松山市高田にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 風早郡「櫛玉比賣命神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

第15代応神天皇の時代、物部阿佐利が国造に任命され、その祖神である櫛玉饒速日尊と、その饒速日尊の子である宇摩志麻治命を奉斎。

これが当社に隣接する国津比古命神社の創祀である。物部阿佐利は、『古事記』に第10代崇神天皇の条に登場する、伊香色男命の四世孫(『古事記』該当部分)。

その際、櫛玉饒速日尊の妃神である天道姫命と御炊屋姫命を奉斎したのが、当社の始まり。

『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)3月壬辰条に、伊予国の櫛玉姫神が従五位下の神階に叙せられたことがみえる。

祓座大明神と称された。国津比古命神社とは夫婦一対の関係ながら、メインは国津比古命神社。

しかし当社は、国津比古命神社に参拝するよりも先に参拝し、当社でお祓いを行うことが例となっていた。

現在の北条北中学校南側の市道と一致する勅使道が、宗昌寺門前まで通じており、まず風早土手浜から上陸した勅使が、最初に妃神たる当社を参詣した。

江戸時代の寛永年間(1624年-1645年)、官命により、南方の小山の頂より現在地に遷座。現在は、夫・国津比古命神社と向かい合う形で鎮座する。

延宝9年(1681年)の扁額が残り、抜入桝大明神とも称されたが、享保年間(1716年-1736年)、現社名に復称した。

古来より、物部氏・風速氏・越智氏など代々その氏神として崇敬された。明治29年(1896年)に郷社に列した。

社殿は古墳を一部削平して建立されている。いわゆる櫛玉比売命神社古墳である。墳丘全長75メートル、後円部径42メートル、前方部幅39メートルの前方後円墳。

4世紀後半の築造とされており、創祀者の物部阿佐利か、それに類する有力者の墓の可能性がある。国津比古命神社も別の古墳の上に社殿が建立されているという。

拝殿の西側には素盞鳴命を祀る素鵞社が、古墳の後円部の北側にあたる、参道の途中左側には和霊神社がある。

なお、大和国には高市郡に櫛玉命神社、広瀬郡に櫛玉比女命神社があり、国津比古命神社と当社ほど関連は指摘されないが、似ている部分がある。

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櫛玉比売命神社(松山市) - 国津比古命神社の妃神、夫神より先に参拝する祓座大明神
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