伊予国造が祖の饒速日尊を奉斎、10月に御輿を放る「風早の火事まつり」
[住所]愛媛県松山市八反地106
[電話]089-992-1202

国津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)は、愛媛県松山市八反地にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 風早郡「國津比古命神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

第15代応神天皇の時代、物部阿佐利が国造に任命され、その祖神である櫛玉饒速日尊と、その饒速日尊の子である宇摩志麻治命を奉斎したことに始まる。

物部阿佐利は、『古事記』に第10代崇神天皇の条に登場する、伊香色男命の四世孫(『古事記』該当部分)。

その際に、櫛玉饒速日尊の妃神である天道姫命と御炊屋姫命を奉斎したのが、隣接する櫛玉比売命神社である。

初め、櫛玉饒速日命神社と称したが、後に物部阿佐利命を合祀して現社号となった。また、後世に誉田別尊を合祀して、頭日八幡宮と称した。

夫婦及び一家を祀る、両社一対の神社で、中世までは壮大な構えのあった神社だったが、戦国時代の天正年間(1573年-1591年)、戦火のために社殿・宝物が焼失。

その後、河野氏が社殿を再建したが、天正15年(1587年)には河野氏は滅亡するので、あまり時間的な余裕はなかったかもしれない。

江戸時代になり、享保年間(1716年-1736年)になり、八幡から現社号に改称した。

寛保元年(1741年)に伊予松山藩6代藩主松平定喬によって、当社に毎年代参拝する制度を定めた。

明治4年(1871年)、郷社に列し、明治29年(1896年)には県社に昇格した。

昭和43年(1968年)には中殿・拝殿を改築、昭和60年(1985年)には社殿屋根葺替や境内地の拡張が行われた。八脚門は県指定有形文化財。

当社は、市内北条地区で毎年10月第2土・日曜日を中心に行われる「風早の火事まつり」の中心的な存在としても知られる。

主に大小の提灯を吊って周りを赤い幕で飾り、下層では半鐘と太鼓でリズムを刻みながら運航する「だんじり」、あえて御輿を壊す「暴れ御輿」からなる。

その激しさゆえか、「かじまつり」と思われがちだが、「ひのことのまつり」が正式。当社御祭神の別名とされる、天火明命にちなむ。

特に3日目、当社への宮入りの際に、階段から神輿を放り投げ、御輿をわざと壊す。御神体を来年新たな神輿に祀るための、しめくくり的な意味合いがある。

境内地には、櫛玉比売命神社古墳がある。全長約75メートルの前方後円墳とされ、4世紀後半の築造。前方部が削られ、櫛玉比売命神社の社殿が造営されたが、後円部は残っている。

また、当社の社殿の下も全長45メートルほどと考えられる前方後円墳があるとされる。一回り大きい櫛玉比売命神社古墳の方が、物部阿佐利の墓なのかもしれない。

なお、大和国には高市郡に櫛玉命神社、広瀬郡に櫛玉比女命神社があり、当社と櫛玉比売命神社ほど関連は指摘されないが、似ている部分がある。

【ご利益】
一願成就、地域安全、地域振興
国津比古命神社
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国津比古命神社の御朱印