賀茂大神が天降った地、4月に南北朝期以来の「浮羽おくんち」
[住所]福岡県うきは市浮羽町山北1
[電話]0943-77-8718
賀茂神社(かもじんじゃ)は、福岡県うきは市浮羽町山北にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
浮羽の地は古くから文献に度々登場する。的邑・以久波・宇枳波・生葉と色々な漢字で出てくるが全てこの地である。
当社の行直大宮司が江戸時代前期の慶安4年(1651年)に誌した旧記には、
南北朝時代の正平元年(1346年)、後醍醐天皇の遺詔に従い、山城国愛宕郡賀茂下上大神(上賀茂神社、下鴨神社)を奉遷したと伝わる。
郡司日田出羽守大蔵永敏目代山北四郎大蔵永高が奉行し、熊懐平右馬太夫波多宿祢行景が斎主となり、行景が初代大宮司となった。
行景は、第8代孝元天皇の曾孫にあたる武内宿禰の19世波多臣広庭の子孫、波多次郎救家の嫡男久家和州の8世孫。
正平16年(1361年)、征西将軍懐良親王が九州を兵乱や戦禍から守るため、竹林因三位中将を奉勅使に立て、当社に紳鏡幣帛を奉って、山城国の賀茂祭の格式によって祭祀を斎行させた。
懐良親王は後に合祀され、この祭りは代々受け継がれて、今日の「おくんち」として伝わっている。いわゆる「浮羽おくんち」で、現在は毎年4月11日。
当社で神事と浦安の舞が奉納された後、隈上正八幡宮を往復する行列には、振毛槍や子ども楽、かわいい稚児などが並び、時代絵巻を思わせる。
境内には、たくさんの露店が軒を連ね、多くの観光客で賑わう。
御祭神は、神日本磐余彦尊、賀茂建角身命・玉依姫命・賀茂別雷命(賀茂下上大神)、懐良親王。
戦国時代の天正7年(1579年)、大友宗麟は柴田長門守嶺能に命じて耶蘇教徒数千人を率いて近隣の神社仏閣を焼き払ったが、当社も焼失した。
兵火の後、仮殿を造営。 25の末社を合祀した。江戸時代になり、慶安4年(1651年)、神殿と拝殿を再建。
寛文元年(1661年)には境内に観音寺を建立したが、明治に入り、神仏分離令により観音寺は清水寺に移された。
文化元年(1804年)、相殿として、藩祖を赤松宮として祀る。久留米藩初代藩主有馬豊氏の父、播磨国の赤松氏庶流の豪族有馬則頼のことか。
境内社に、天満神社(菅原道真)、五穀神社(保食神・稲次因幡正誠命)、琴平神社(崇徳天皇)、猿田彦神社(猿田彦命)、秋葉神社(迦具土神)、稲荷神社(保食神)、護国神社がある。
摂社として、日吉神社(山王神社)と三次神社(元宮様)がある。いずれも当社に先行する、当社の根源ともいえる神社。
日吉神社
鎌倉時代初期の建久7年(1196年)9月、宮司家初代久家和州が近江国坂本の日吉大社を勧請した。
日吉神社の境内社として、春日神社(天児屋根命)、火魂神社(奥津姫神)、宮地岳神社(神功皇后・勝村大神・勝頼大神)がある。
三次神社
第12代景行天皇18年に天皇が西国を巡狩した時、当地で熊襲の静謐を祈り、後に日本武尊・仲哀天皇も、神祈を行ったことを起源とする。
創建は景行天皇28年、水沼県主に勅して「ここに磐境を作り神籬を起こし立てて神祈を鎮祭」させた。
境内にあって雨乞いに霊験著しい「三次石」、御三方が奉斎した、景行天皇が宿泊した御次神社、などが社名の由来となっている。
【ご利益】
家内安全、夫婦和合、安産、諸願成就
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[電話]0943-77-8718
賀茂神社(かもじんじゃ)は、福岡県うきは市浮羽町山北にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
浮羽の地は古くから文献に度々登場する。的邑・以久波・宇枳波・生葉と色々な漢字で出てくるが全てこの地である。
当社の行直大宮司が江戸時代前期の慶安4年(1651年)に誌した旧記には、
賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座し、初代神武天皇が日向から大和へ東遷の際、宇佐から山北へ来て、賀茂大神は八咫烏となって東幸を助けたとしている。境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土しており、後述の三次神社とあわせ、この記載に現実味を持たせている。
南北朝時代の正平元年(1346年)、後醍醐天皇の遺詔に従い、山城国愛宕郡賀茂下上大神(上賀茂神社、下鴨神社)を奉遷したと伝わる。
郡司日田出羽守大蔵永敏目代山北四郎大蔵永高が奉行し、熊懐平右馬太夫波多宿祢行景が斎主となり、行景が初代大宮司となった。
行景は、第8代孝元天皇の曾孫にあたる武内宿禰の19世波多臣広庭の子孫、波多次郎救家の嫡男久家和州の8世孫。
正平16年(1361年)、征西将軍懐良親王が九州を兵乱や戦禍から守るため、竹林因三位中将を奉勅使に立て、当社に紳鏡幣帛を奉って、山城国の賀茂祭の格式によって祭祀を斎行させた。
懐良親王は後に合祀され、この祭りは代々受け継がれて、今日の「おくんち」として伝わっている。いわゆる「浮羽おくんち」で、現在は毎年4月11日。
当社で神事と浦安の舞が奉納された後、隈上正八幡宮を往復する行列には、振毛槍や子ども楽、かわいい稚児などが並び、時代絵巻を思わせる。
境内には、たくさんの露店が軒を連ね、多くの観光客で賑わう。
御祭神は、神日本磐余彦尊、賀茂建角身命・玉依姫命・賀茂別雷命(賀茂下上大神)、懐良親王。
戦国時代の天正7年(1579年)、大友宗麟は柴田長門守嶺能に命じて耶蘇教徒数千人を率いて近隣の神社仏閣を焼き払ったが、当社も焼失した。
兵火の後、仮殿を造営。 25の末社を合祀した。江戸時代になり、慶安4年(1651年)、神殿と拝殿を再建。
寛文元年(1661年)には境内に観音寺を建立したが、明治に入り、神仏分離令により観音寺は清水寺に移された。
文化元年(1804年)、相殿として、藩祖を赤松宮として祀る。久留米藩初代藩主有馬豊氏の父、播磨国の赤松氏庶流の豪族有馬則頼のことか。
境内社に、天満神社(菅原道真)、五穀神社(保食神・稲次因幡正誠命)、琴平神社(崇徳天皇)、猿田彦神社(猿田彦命)、秋葉神社(迦具土神)、稲荷神社(保食神)、護国神社がある。
摂社として、日吉神社(山王神社)と三次神社(元宮様)がある。いずれも当社に先行する、当社の根源ともいえる神社。
日吉神社
鎌倉時代初期の建久7年(1196年)9月、宮司家初代久家和州が近江国坂本の日吉大社を勧請した。
日吉神社の境内社として、春日神社(天児屋根命)、火魂神社(奥津姫神)、宮地岳神社(神功皇后・勝村大神・勝頼大神)がある。
三次神社
第12代景行天皇18年に天皇が西国を巡狩した時、当地で熊襲の静謐を祈り、後に日本武尊・仲哀天皇も、神祈を行ったことを起源とする。
創建は景行天皇28年、水沼県主に勅して「ここに磐境を作り神籬を起こし立てて神祈を鎮祭」させた。
境内にあって雨乞いに霊験著しい「三次石」、御三方が奉斎した、景行天皇が宿泊した御次神社、などが社名の由来となっている。
【ご利益】
家内安全、夫婦和合、安産、諸願成就
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