薩摩藩三薬師「門倉薬師」の「やくっさー」、平田・吉田の辞世
醫師神社(鹿児島県霧島市国分敷根1576)
[住所]鹿児島県霧島市国分敷根1576
[電話]-

醫師神社(いしじんじゃ、医師神社)は、鹿児島県霧島市にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。

地元では「やくっさー」と称されるが、これは「薬師様(やくしさま)」の方言。主祭神は少名毘古那神。例祭は9月24日。

応神天皇神功皇后火産霊神天御中主大神豊宇気比売命を配祀する。配神は明治42年(1909年)に合祀されたもの。

明治維新以前は、「門倉薬師」と呼ばれ、米山薬師・高岡法華嶽寺とともに薩摩藩の三薬師の一つであったが、神仏判然令による廃仏毀釈の影響で神社とされた。

門倉薬師のあった門倉坂は、奈良時代の天平13年(741年)、大隅国分寺建立の詔以来日州方面への交通の要衝となっていった。

『三国名勝図会』には創建年は不明だが漢上明国浙江寧波府定海県の蕫十八官が建立、その後荒れたが、その子が天正4年(1577年)12月23日再建した。

豊臣秀吉による文禄元年(1592年)の朝鮮出兵において、島津義弘が従軍する際、その御座舟の木材に用いられたのは門倉薬師周辺の杉材であった。

その船の船名を「薬師丸」と名づけたのもこの薬師の名に由来する。

この材木を切り出す際に大蛇が出てその木に巻きついたり、様々な生き物が出て様々な不思議なことが起こり、きこり達は恐れて山に入ることができなかった。

そのことが義弘の耳に入り修験盲僧に祈祷させたところ、たちまちにして鎮まり伐採が進んだという。

慶長4年(1599年)の庄内地方の合戦で島津軍が庄内へ出陣の途中、門倉薬師堂に立ち寄り兵士たちが堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。

そこへ遅れて平田三五郎宗次と友人の吉田大蔵が通り、2人も堂へ筆を入れようとした。しかしすでに堂には筆を入れる隙もなく、堂の高い所に辞世の句を残した。
書置くも 形見ともなる筆の跡 我は何処の土となるらん(平田)

命あらば 又も来て見ん門倉の 薬師の堂の軒の下露(吉田)
かくして庄内に出発し、同年(1600年)11月28日に激戦奮闘の末、平田も吉田も討ち死に。薬師堂の壁書きは高所だったために長く残り、多くの見学者が2人の辞世に感涙したという。

当初の薬師堂の天井には竜の画があった。高さ3尺ほどの伝教大師作の木像が安置され、左右に日光・月光・十二神が安置されていた。

それらがいつの頃か盗まれてしまったため、天明3年(1783年)10月に日州諸県郡高城邑宮原村仏工が彫刻し寄進した、という。

明治42年に、姶良郡敷根村麓字柊木山の若宮神社、島ノ前の竈神社、麓の天御中主神社、麓浜町の宇気母智神社、麓字鞍掛の堅富神社(不詳)を合祀した。

【ご利益】
病気平癒、病魔退散、身体壮健
醫師神社(霧島市) - 薩摩藩三薬師「門倉薬師」の「やくっさー」、平田・吉田の辞世
【関連記事】
鹿児島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、鹿児島県に鎮座している神社の一覧