弟橘媛の陵「富士見台古墳」、周辺に縄文遺跡や歴史ある寺院
[住所]神奈川県川崎市高津区子母口122
[電話]044-411-4344 - 住吉神社
橘樹神社(たちばな じんじゃ)は、神奈川県川崎市高津区子母口にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
創建は不詳だが、古くからの子母口村の鎮守で、日本武尊と弟橘媛の男女2躯の御神体を祀り、かつては立花社ともいわれていた。
旧武蔵国橘樹郡にあたり、近隣に郡衙が置かれていたと推定される地域にあることから、かつて橘樹郡の総社であったと考えられている。
社伝によると、「日本武尊が東征の際、海が荒れ、弟橘媛はその身を投じ海を鎮た。やがて入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着した」とある。
『古事記』でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」とある(『古事記』該当部分)。
そのため、近くの子母口富士見台の高台にある富士見台古墳は、一説には弟橘媛の御陵であるとも伝えられているが、史料がなく具体的なことは分かっていない。
富士見台古墳は当社の裏手の丘にあり、弟橘媛陵とする説がある一方、6世紀頃の築造となり、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある。
富士見台は江戸時代までは旧子母口村の一角であったが、近年になり都市化が進むと川崎市が本古墳周辺に宅地を造成し、地名も「子母口富士見台」に改められた。
かつては多摩川沿いの田園風景の中にそびえる丘だった富士見台は、現在は宅地造成や道路敷設によって削られ、古墳頂上部の一部のみが姿を留めている。
社殿は、最古のもので元禄元年(1688年)に再建の記録がある。その後、嘉永4年(1851年)にも建替えがあり、昭和42年(1964年)に改修された。
例祭は10月8日、現在は10月体育の日が祭礼で、前日9日の宵宮では、子母口囃子が町内を廻る。
当社のある高台は、東急田園都市線の梶が谷駅から続く「たちばなの散歩道」の終点にあたり、付近には縄文時代早期の標式遺跡である「子母口貝塚」もある。
また、白鳳時代の開基といわれる影向寺(宮前区野川)と、その塔頭十二坊の一つであった能満寺(高津区千年)などがある。
【ご利益】
水難除け、海上・交通安全、旅行安全、夫婦和合、家内安全(公式HP)
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・神奈川県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、神奈川県に鎮座している神社の一覧
[電話]044-411-4344 - 住吉神社
橘樹神社(たちばな じんじゃ)は、神奈川県川崎市高津区子母口にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
創建は不詳だが、古くからの子母口村の鎮守で、日本武尊と弟橘媛の男女2躯の御神体を祀り、かつては立花社ともいわれていた。
旧武蔵国橘樹郡にあたり、近隣に郡衙が置かれていたと推定される地域にあることから、かつて橘樹郡の総社であったと考えられている。
社伝によると、「日本武尊が東征の際、海が荒れ、弟橘媛はその身を投じ海を鎮た。やがて入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着した」とある。
『古事記』でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」とある(『古事記』該当部分)。
そのため、近くの子母口富士見台の高台にある富士見台古墳は、一説には弟橘媛の御陵であるとも伝えられているが、史料がなく具体的なことは分かっていない。
富士見台古墳は当社の裏手の丘にあり、弟橘媛陵とする説がある一方、6世紀頃の築造となり、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある。
富士見台は江戸時代までは旧子母口村の一角であったが、近年になり都市化が進むと川崎市が本古墳周辺に宅地を造成し、地名も「子母口富士見台」に改められた。
かつては多摩川沿いの田園風景の中にそびえる丘だった富士見台は、現在は宅地造成や道路敷設によって削られ、古墳頂上部の一部のみが姿を留めている。
社殿は、最古のもので元禄元年(1688年)に再建の記録がある。その後、嘉永4年(1851年)にも建替えがあり、昭和42年(1964年)に改修された。
例祭は10月8日、現在は10月体育の日が祭礼で、前日9日の宵宮では、子母口囃子が町内を廻る。
当社のある高台は、東急田園都市線の梶が谷駅から続く「たちばなの散歩道」の終点にあたり、付近には縄文時代早期の標式遺跡である「子母口貝塚」もある。
また、白鳳時代の開基といわれる影向寺(宮前区野川)と、その塔頭十二坊の一つであった能満寺(高津区千年)などがある。
【ご利益】
水難除け、海上・交通安全、旅行安全、夫婦和合、家内安全(公式HP)
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