空海の遺訓「湯殿山へと通ずる本道」口ノ宮、仏足石も
[住所]山形県西村山郡西川町本道寺大黒森381
[電話]0237-75-2220
湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)は、山形県西村山郡西川町本道寺大黒森にある神社。近代社格では無格社。口ノ宮湯殿山神社、本道寺口ノ宮湯殿山神社、湯殿山神社口ノ宮とも。御朱印の有無は不明。
もとの本道寺。平安時代の大同4年(809年)、本道寺は湯殿山に参拝した弘法大師空海によって開基された。
空海は、この地にて霧の中で光る老木から大日如来と大黒天2体の仏像を造り、庵に安置したと言う。
この地を旅立つ際、空海は従僧の一人に対し、「ここは、湯殿山大権現へと通ずる本道である。汝は私の代わりにここを守り、湯殿山への日月の代参を行うべし。さすれば大権現の霊験が世に現われるだろう」と言い残したという。
当初は、2体の仏像が安置された庵を月光山光明院と称した。
その後、天長3年(827年)に湯殿山大権現を勧請して伽藍が造られ、これ以降月光山本道寺と称し、湯殿山4か寺となった。
ほかの3寺は鶴岡市大網の大日坊と注連寺、西川町大井沢の大日寺(現 大日寺跡湯殿山神社)である。
本道寺は、空海の遺訓もあって、4か寺の正別当として湯殿山の中心的な別当寺となった。
歴代の領主にも崇敬された。古くは大江氏の流れを汲む寒河江氏、ついで最上氏の崇敬を受けた。
江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺にもなった。
「出羽三山参拝の本道」とされたため、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は、「(参拝のピークである)夏の稼ぎだけで遊んで暮らせた」という。
明治元年(1868年)、本道寺の周辺は、戊辰戦争の戦場となった。
天童藩を陥落させた後、この地に進出した薩摩藩、尾張藩を中心とし、恭順した東北諸藩を従えた新政府軍と、庄内藩、桑名藩による旧幕府軍との間で戦闘が行われた。
旧幕府軍の敗走後、本道寺は、将軍家の祈願所であったために、新政府軍の攻撃を受け、大伽藍を焼き払われた。いわゆる入間森畑の戦いである。
明治維新の際、仁王像や空海坐像などが散逸したが、それらは寄贈されたり、古物商から買い戻されたりして、現在は当社が所有する。
明治7年(1874年)、本道寺は寺号を廃して現社号を称する神社となった。
湯殿山の御祭神である大山祇神・大己貴命・少彦名命。月山の御祭神である月読命、羽黒山の御祭神である伊弖波神を配祀する。
明治10年(1877年)、山形県初代県令三島通庸により、当社を分祀し、県庁守護として山形市旅篭町に県社湯殿山神社が建立された。旧県会議事堂(文翔館)裏に現存する湯殿山神社は、これに由来する。
戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890年)に拝殿や本殿として再建されたが、その規模は、往時に比べて大きく縮小された。
境内には、鳥居や、瑞鳳寺の高僧であった南山の揮毫「湯殿山」額が有名な山門、拝殿・本殿、石仏、日本国内に現存する3尊のうちの1尊である仏足石などがある。
十二面山神・地蔵尊もあり、また八日塔碑、太神宮碑、金比羅大権現碑、百万遍供養塔、湯殿山供養塔などがある。
【ご利益】
商売繁盛、病気平癒

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湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)は、山形県西村山郡西川町本道寺大黒森にある神社。近代社格では無格社。口ノ宮湯殿山神社、本道寺口ノ宮湯殿山神社、湯殿山神社口ノ宮とも。御朱印の有無は不明。
もとの本道寺。平安時代の大同4年(809年)、本道寺は湯殿山に参拝した弘法大師空海によって開基された。
空海は、この地にて霧の中で光る老木から大日如来と大黒天2体の仏像を造り、庵に安置したと言う。
この地を旅立つ際、空海は従僧の一人に対し、「ここは、湯殿山大権現へと通ずる本道である。汝は私の代わりにここを守り、湯殿山への日月の代参を行うべし。さすれば大権現の霊験が世に現われるだろう」と言い残したという。
当初は、2体の仏像が安置された庵を月光山光明院と称した。
その後、天長3年(827年)に湯殿山大権現を勧請して伽藍が造られ、これ以降月光山本道寺と称し、湯殿山4か寺となった。
ほかの3寺は鶴岡市大網の大日坊と注連寺、西川町大井沢の大日寺(現 大日寺跡湯殿山神社)である。
本道寺は、空海の遺訓もあって、4か寺の正別当として湯殿山の中心的な別当寺となった。
歴代の領主にも崇敬された。古くは大江氏の流れを汲む寒河江氏、ついで最上氏の崇敬を受けた。
江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺にもなった。
「出羽三山参拝の本道」とされたため、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は、「(参拝のピークである)夏の稼ぎだけで遊んで暮らせた」という。
明治元年(1868年)、本道寺の周辺は、戊辰戦争の戦場となった。
天童藩を陥落させた後、この地に進出した薩摩藩、尾張藩を中心とし、恭順した東北諸藩を従えた新政府軍と、庄内藩、桑名藩による旧幕府軍との間で戦闘が行われた。
旧幕府軍の敗走後、本道寺は、将軍家の祈願所であったために、新政府軍の攻撃を受け、大伽藍を焼き払われた。いわゆる入間森畑の戦いである。
明治維新の際、仁王像や空海坐像などが散逸したが、それらは寄贈されたり、古物商から買い戻されたりして、現在は当社が所有する。
明治7年(1874年)、本道寺は寺号を廃して現社号を称する神社となった。
湯殿山の御祭神である大山祇神・大己貴命・少彦名命。月山の御祭神である月読命、羽黒山の御祭神である伊弖波神を配祀する。
明治10年(1877年)、山形県初代県令三島通庸により、当社を分祀し、県庁守護として山形市旅篭町に県社湯殿山神社が建立された。旧県会議事堂(文翔館)裏に現存する湯殿山神社は、これに由来する。
戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890年)に拝殿や本殿として再建されたが、その規模は、往時に比べて大きく縮小された。
境内には、鳥居や、瑞鳳寺の高僧であった南山の揮毫「湯殿山」額が有名な山門、拝殿・本殿、石仏、日本国内に現存する3尊のうちの1尊である仏足石などがある。
十二面山神・地蔵尊もあり、また八日塔碑、太神宮碑、金比羅大権現碑、百万遍供養塔、湯殿山供養塔などがある。
【ご利益】
商売繁盛、病気平癒

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