歴代領主が崇敬した成島荘鎮守、片倉小十郎のルーツ、大崎八幡宮の元宮
[住所]山形県米沢市広幡町成島1057-2
[電話]0238-37-5129
成島八幡神社(なるしまはちまんじんじゃ)は、山形県米沢市広幡町成島にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
蝦夷討伐のためこの地に下ってきた大伴駿河麿によって、奈良時代の宝亀8年(777年)に創始されたと伝わる。御祭神は、誉田別尊(八幡神)。
平安時代に坂上田村麻呂が最初に社殿を造営したという伝説があり、成島荘の鎮守として崇拝された。永保元年(1081年)、源義家が社領を寄進した。
同社に納められた棟札によれば、正安2年(1300年)に長井荘(置賜地方)の地頭・長井宗秀によって宝殿などが修理された。
永徳3年(1383年)に伊達宗遠によって拝殿が造営され、その後も修理が重ねられているとはいえ、これが現在残っている拝殿である。
また、現在の本殿は承応3年(1654年)に米沢藩主・上杉綱勝によって造営されたもの。
当社は長井、伊達、蒲生、上杉と歴代領主に手厚く保護され、崇敬された。当社に保存されている43枚もの棟札がそれを証明している。
特に伊達氏の崇拝は厚く、伊達政宗が岩出山城に移った時には城内に分祀され、後に仙台に大崎八幡宮として祭祀された。
伊達政宗の重臣である片倉景綱(片倉小十郎)は、当社の神官とされる片倉景重の次男である。
例祭は8月15日。
境内の北側と西側は高さ約約2メートルの土塁で囲まれており、その外側には空堀の跡もある。
西側には虎口の跡と思われる遺構も残されており、当社が中世城館の特徴を持っていたことが分かる。
社殿造営の棟札46枚のほか、木造門神坐像2体や舞楽面などが伝わっている。
また、山形県川西町の成宝寺に伝わる僧形八幡神像ももともとは当社の宝物であるという。木造門神坐像2体及び僧形八幡神像は平安時代後期の作とされる。
他に、幕末の慶応2年(1866年)8月、荒井佐五平門人荒井重蔵など10名が奉納した算額がある。
【ご利益】
地域安全、地域振興、家内安全、厄災除け、方除け
【関連記事】
・山形県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、山形県に鎮座している神社の一覧
[電話]0238-37-5129
成島八幡神社(なるしまはちまんじんじゃ)は、山形県米沢市広幡町成島にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
蝦夷討伐のためこの地に下ってきた大伴駿河麿によって、奈良時代の宝亀8年(777年)に創始されたと伝わる。御祭神は、誉田別尊(八幡神)。
平安時代に坂上田村麻呂が最初に社殿を造営したという伝説があり、成島荘の鎮守として崇拝された。永保元年(1081年)、源義家が社領を寄進した。
同社に納められた棟札によれば、正安2年(1300年)に長井荘(置賜地方)の地頭・長井宗秀によって宝殿などが修理された。
永徳3年(1383年)に伊達宗遠によって拝殿が造営され、その後も修理が重ねられているとはいえ、これが現在残っている拝殿である。
また、現在の本殿は承応3年(1654年)に米沢藩主・上杉綱勝によって造営されたもの。
当社は長井、伊達、蒲生、上杉と歴代領主に手厚く保護され、崇敬された。当社に保存されている43枚もの棟札がそれを証明している。
特に伊達氏の崇拝は厚く、伊達政宗が岩出山城に移った時には城内に分祀され、後に仙台に大崎八幡宮として祭祀された。
伊達政宗の重臣である片倉景綱(片倉小十郎)は、当社の神官とされる片倉景重の次男である。
例祭は8月15日。
境内の北側と西側は高さ約約2メートルの土塁で囲まれており、その外側には空堀の跡もある。
西側には虎口の跡と思われる遺構も残されており、当社が中世城館の特徴を持っていたことが分かる。
社殿造営の棟札46枚のほか、木造門神坐像2体や舞楽面などが伝わっている。
また、山形県川西町の成宝寺に伝わる僧形八幡神像ももともとは当社の宝物であるという。木造門神坐像2体及び僧形八幡神像は平安時代後期の作とされる。
他に、幕末の慶応2年(1866年)8月、荒井佐五平門人荒井重蔵など10名が奉納した算額がある。
【ご利益】
地域安全、地域振興、家内安全、厄災除け、方除け
【関連記事】
・山形県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、山形県に鎮座している神社の一覧
コメント