田村麻呂の創建、歴代領主と伊達家の崇敬、要石と悲恋の姫
鹿島神社(宮城県加美郡加美町字赤塚8-14)
[住所]宮城県加美郡加美町字赤塚8-14
[電話]0229-63-6009

鹿島神社(かしまじんじゃ)は、宮城県加美郡加美町字赤塚、四日市場屋敷にある神社。赤塚鹿島神社とも。御朱印の有無は不明。

平安時代初期の延暦21年(802年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の際、奥州一の宮塩釜神社左宮(鹿島神)を勧請して創建した。

御祭神は武甕槌神。千波大膳川瀬清久に奉斎を命じたとも伝わる。当時は四日市場南元宿小松塚の地にあり、小松神社とも称えられた。

南北朝時代、貞和4年(1348年)、大崎地方の領主となった斯波家兼が、郡中に5人の祀官を置いた。そのうちの一人が、当社27代千波大膳久基だった。

その際は、毎年9月9日に湯立ての儀があり、翌10日に宮城郡松ヶ浜に神輿を下し、海水に禋潔し、還って流鏑馬の式があり、盛大に祭礼を行うのを例としたという。

戦国時代になり、天正5年(1577年)、大崎義隆、黒川左頭月舟斎晴氏が鳥居を奉納するなど、大崎地方を治めた代々の領主から厚い崇敬を受けた。

しかし、大崎義隆が小田原参陣せず、豊臣秀吉により、領地を没収されると、後任の領主木村吉清は圧政を布き、神事も怠った。

そのため、当社も一時荒廃、38代近江種清は御神体を奉じて小野田本郷滝庭奥に非難した。

やがて伊達氏の所領になり、種清はその子である山伏の成就坊永善とともに帰社、永善は珍宝山神宮寺と称した。

江戸時代前期の寛永元年(1624年)、先代藩主伊達政宗は社殿修理費を寄進している。

寛永15年(1638年)には2代藩主伊達忠宗が社参し、九曜紋付き御手炉・黄金・良材を献じて社殿造営の資とさせ、伊達家九曜紋の使用を許したという。

寛永17年(1640年)、御竿入れに際し、鳴瀬川の水路移動による水難を逃れ、現在地に遷座し、中新田・四日市場・雑式目・下狼塚・上狼塚・城生・羽場・菜切谷の八邑の鎮守となった。

承応3年(1654年)には本殿を、天和3年(1683年)には拝殿を改新営した。元禄5年(1692)、4代藩主伊達綱村が社参、翌年に新たに長床を造営した。

宝永3年(1706)、5代藩主伊達吉村は永世修営の資として黄金1枚を献じ、社運の隆盛に寄与した。

明治5年(1872年)に村社に列し、明治30年(1897年)には中新田十日市の本間半右エ門氏の篤志により、長床を改築、寄進された。

明治43年(1910年)、大崎八幡神社(誉田別尊)・多川稲荷神社(倉稲魂神)・神明社(天照大神)を合祀した。

太平洋戦争のために、300年近く伝来した神鐘が政府に回収されたが、昭和30年(1955年)の町村合併2周年を記念し、氏子の寄進により新たに鋳造され、鐘楼も併せて改築献納された。

5月10日が春季例大祭、10月10日が秋季大祭。当社は鹽竈神社を勧請したが、当社境内には、鹿島神宮と同じように要石があることで知られている。

加美郡色麻町の伊達神社、下新田の宇伎須神社とともに、色麻古社三社の一社。鳴瀬川を挟んで三社が三角形を描いて鎮座しているのは、東国三社を模したものだという。

また、境内には「おものめ様」が祀られている。美しい姫と、大蛇が化けた美男子の恋愛譚で、ガマが大蛇の正体を暴き、悲恋となるというストーリー。

『古事記』に描かれた三輪山の説話と類似したもので、現在では、恋愛が成就しなかった姫を手厚く祀ることで、縁結びの神としての信仰を集めている。

【ご利益】
地域安全、地域振興、縁結び、厄災除け、開運招福(公式HP
鹿島神社(加美町赤塚) - 田村麻呂の創建、歴代領主と伊達家の崇敬、要石と悲恋の姫
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